2024年12月31日火曜日

【第27話】つぶやき6:個人的な音楽体験(24.12.31)

      モーツアルト ピアノ協奏曲20番 ピアノ:フリードリヒ・グルダ(1986年)        

これは「つぶやき5:地元の政治家たちとの人間関係の形成で悪戦苦闘しているXさんへ」の脚注。

今月11日に、こう書いた。

人類は原発でいずれ絶滅するかもしれないが、しかしその前に、人類は既に絶滅危惧種だ、脳化社会の中で「ゆでガエル」にさせられて(>ブログ

そこから、絶滅危惧種から抜け出す途は、脱「ゆでガエル」しかないことを痛感した。ならば、脱「ゆでガエル」を実行する途はどこにあるのか。

それは大河のような太い流れの中に見つかるのではなく、細い、チョロチョロ流れる水たまりの中にしか見つからないのではないか。それがひとりひとりが各人各様のやり方で体験するほかない、個人的体験を通じてなされる小道のこと。

そう思った時、私にとって、そのような個人的体験が3つあったことに気がついた。
(1)、ひとつは、ものごころついてから、大学受験勉強を始めた小学校3年までの間、夢中だった虫捕りの体験。それは小学校3年以来ずっと封印して来た体験だったが、今年の夏、超虫屋にして奇人変人の養老孟司と出会い、久々に虫捕りの封印を解いた時、虫捕りの体験はひとつも風化しておらず、むしろ永遠に記憶に刻まれた至福の瞬間であったことを再発見した。

(2)、もうひとつが、小学校3年でクラスの女の子から仕掛けられた数学のトンチ。それは次のようなもので、その後20年間、それは私の喉に刺さった小骨のように私の精神をひりひりさせ続けた。
或る日、クラスの女の子が黒板にこう書いて、みんなにトンチを出した。
「1+1は?」
2とか田とかいう答えに、その子は「ブブッー」と言い
、それからこう言いました。
 
「正解は1です」
何で?というクラスの子らの問いに、彼女曰く
「ここに粘土の固まりが1個あります。こっちにも、粘土の固まりが1個あります。両方の固まりを合わせれば、答えは1個の粘土になります。だから1+1=1」

この単純明快な説明を聞いたその日以来、それまで自分の安心立命の寄って立つ基盤をひそかに数学に求めていた私は「自分は正しい数学をやっている」という確信が持てなくなった。自分がやっているのは、単に、1+1=2と書けばテストで◯をもらえるだけのことではないか、その疑念の渦の中に突き落とされたという数学的体験。

(3)、三番目が音楽的体験。
それまで音楽に無縁だった自分が初めて個人的な音楽体験をしたのは、毎年司法試験に落ち続け、20代を棒に振った20代最後の年、その年末にたまたまラジオで音楽評論家の吉田秀和がパブロ・カザルスを紹介する番組を聞いた時である。その番組で、スペイン内戦のときに共和派支持に参加したカザ
スがバルセロナ(ひょっとしたらマドリード)陥落の前日まで、市民を鼓舞するために現地にとどまりコンサートを行なっていたというエピソードが紹介された。それまで、私は芸術家=軟弱で破滅的な人というイメージしかなかったので、このカザスの行動に度肝を抜かれた。そして、こういう音楽的人生というものがあったことに震撼させられた。このエピソードは私の殺伐とした20代の牢獄のような受験生活で出会った命の泉だった。
私は、この
パブロ・カザスとその1ヵ月後に誕生した吾が子からパワーと勇気を授かり、それまで自分にはどうしても乗り越えられないと思っていたバカの壁(司法試験)を翌年乗り越えることが出来た。合格を決めた日、私は、初めて、カザスの「バッハの無伴奏チェロ組曲」のCDとドボルザークのチェロ協奏曲の生演奏のチケットを大枚をはたいて購入した。
 
そのあと、カザスの演奏を出来るだけいい音で聞いてみたいと思った。しかし、金はない。そこで、手作りのスピーカー作りに夢中になり、それが完成したとき、FM放送で流れたのがフリードリヒ・グルダのライブ演奏、モーツアルト「ピアノ協奏曲20番」だった。これを聴いたとき、その天をも突くグルダの怪演にビックリ仰天し、その音は当時の私の殺伐とした空洞のような心いっぱいに染みわたり、鳴り響いた。ああ、そうだ、これがモーツアルトなんだと全身全霊でブルブル震え、圧倒された。こんな経験は空前絶後、その後も同じ曲を同じグルダ演奏で聞いたけれど、この時の感動は二度と訪れなかった。しかし、この個人的経験は、私にとって音楽的体験の核心、否、音楽的創造の源泉の場面に立ち会い、その秘密を伝授されたような気持ちがして、その後の私の音楽的体験のあり方を決定した。
 
そして、レベルはぜんぜんちがうが、これと同じことを武満徹はくり返し述べている。それが 、

 私は中学生のとき勤労動員で、ほぼ一年にわたって埼玉県の陸軍基地で働いていた。そこはアメリカの本土上陸にそなえて建設された食糧基地であった。私たち学生の宿舎は山奥の木立ちの茂みの中にある、半地下壕のような体裁のものであった。電気もなく、冬は宿舎の土間に焚火(たきび)でもしなければ寒さに耐えられず、夏はまるでむろのように饐(す)えた。私たちは兵隊と同じように、寝具である毛布の整頓が悪いというようなことで下士官から殴打された。時には、理由もなく数キロの山道を軍歌演習をしながら駈けさせられた。(中略)
 そんな環境のなかで、私はある一つの〈歌〉を聞いた。そして、それは軍歌や当時の他のうたのようにしいられたものではなかった。

 基地には、数人の学業半ばに徴兵された見習士官がいた。真夏の午後、兵隊に命ぜられて数人の学生が黒い雄牛を屠殺した。その事件で、私たちはどうしようもなくたかぶりながらも、なぜか黙ったまま半地下壕の宿舎に閉じこもっていた。夜、一人の見習士官が手回しの蓄音機をさげて学生の宿舎へたずねて来た。彼はうつむきながらなにかを語り、1枚のレコードをかけた。

 それは、私にとってひとつの決定的な出会いであった。その時、私の心は他の学生たちとおなじように、おおうことのできない空洞であり、ただその歌がしみこむにまかせていた。あの時、私たちはけっしてその歌を意志的に聞こうとしていたのではなかった。そして歌はまた、ただ静かに大きな流れのように私たちの肉体へそそがれたのだ。
(中略)
 私があのとき聞いた歌は、絶対にジョセフィン・ベーカーのシャンソンでなければならなかったが、私はそれと出会ったことで、もう昨日の私ではなかったし、その歌もすがたを変えてしまったのだ。「暗い河の流れに」(「私たちの耳は聞こえているか」所収)

このとき、武満はその音楽を意思的に、みずから意図的に聞こうとして聞いたのではなかった。抑えがたい、覆うことの出来ない惨澹たる空洞の心に しみこむのに任せてしみこんで来て、ただそこに注がれた。そこで、もう二度と元に戻れない体験をしてしまった。それが彼の生涯を決定した、生涯に刻まれた個人的な音楽的体験。

私の場合、その2年後にもう1つあった。それがブルーノ・ワルター指揮のブラームスの交響曲第4番の第1楽章(>音源)を聞いた時の経験。この13分の音楽的体験を通して、私はそれまで考えあぐねてきた裁判官志望の道から己の望みの道へシフトすることを決断した。その時のことを、かつて以下のようにメモったことがある(ダバより)。

 曲は、冒頭から、ある一つの終末を目指して魂の奥底まで轟き入るかのよ うな鋭敏な音を鳴り響かせ、それはなにものかに飢えていたダバの心を締め つけるような感動で満たしていきました。
 彼は、もはや自分から何かを求めようとはせず、ただ陶酔を胸に秘め、曲 の進行に全て身を委ねました。それは、冒頭からまるで人生の希望と苦悩を 共々背負い、さ迷い続けた揚句、新しい出口を求めずにはおれない人間の魂の叫びのような、旋律を幾重にも積み重ね、やがて、第1楽章の結びに至る と、それまで何処か新しい出口を探しあぐねて、空しく高い塔のように幾重にも積み上げられてきた旋律の塔が、遂に、神の恩寵を受けて、天上に届 き、そこから新しい第1歩----苦悩の間から歓喜に満ちたすざまじい飛躍の第一歩が踏み出されようという瞬間、その瞬間、ダバはそのごうごうと響き 渡る音の間から、これと呼応するかのように
----あゝ生きるんだ、生きるんだ。俺は、生きてやるぞ。生きて生き抜く ぞ!
 という満腔の叫びがダバの全身を貫いて響き渡るのを聞きとどけたのでし た。その瞬間というもの、彼は、まるで雷に打たれたかのように動けなかっ たのでした。
 この一瞬の後、ダバは、自分が裁判官にならない決断をしてしまっている ことに気がつきました。

この瞬間、ブラームスのこの交響曲は私のために用意された唯一無二の音楽であるかのように感じた。私はブラームスにも、これを演奏したワルターにも、彼らから、一生、何物にも替え難い宝を授かったと思った。

それから40年、この冬、武満徹と再会する中で、今ようやく、これらの音楽的体験がチェルノブイリ法日本版の体験と繋がっていることが確信できた。その時、私は武満徹に対しても、彼から一生、何物にも替え難い宝を授かったと思った。

2024年12月30日月曜日

【第26話】つぶやき5:地元の政治家たちとの人間関係の形成で悪戦苦闘しているXさんへ(24.12.31)

1、2つのタイプ
チェルノブイリ法日本版(以下、日本版と略称)の市民運動を知った人たちが示す反応として、少なくとも次の2つのタイプがあると思う。

A.そんな市民運動があったことを今まで知らなかったことに驚き、もっと知りたいと参加する人たち。

B.そんな市民運動があったことを知ったのちも、「一歩前に出て参加すること」をしない人たち。

Aに属する人たちのひとりが(広い意味で)漫画家のちばてつやさん。彼は、311後に日本は汚染地の子どもたちの集団避難がてっきり実行されているものとばかり思っていた。しかし、それが何も実行されていないことを知り、愕然とする。そして、このような子どもたちの避難の権利が保障されなければならないと考え、そのために一歩前に出た。それがまつもと子ども留学への支援、協力(以下が、そのプロジェクトのスタート時の記者会見に参加した彼のブログ記事)。
福島の児童疎開プロジェクトより

これまで、ワシは何の役にも立てず、
つくづく情けなかったけど、これからは
疎開先の学童達、スタッフのみなさん達を
なんとか、応援するつもりです。

2、Bタイプ
これに対し、圧倒的に多いのがBに属する人たち。もちろん、それにはそれ相応の訳があり、ひと括りすることは出来ない。だが、それにも関わらず、この人たちは「それ相応の訳」と日本版の市民運動との間で、優先順位は前者が優先していることには間違いない。もし、後者の重要性が自覚されているのだったら、どんなに多忙でも、どんなに時間が取れなくても、参加するやりようは、ちばてつやさんみたいにいくらでもあるのだから。詰まるところ、この人たちはまだ自分なりに日本版と出会った経験をしていない。

たとえば、日本版の運動への参加を期待され働きかけを受けていたのに現実には参加しようとしない、リベラルを自称する自治体の首長や議員のひとたちもBタイプだと思う。ならば、彼らに参加して貰うためには何をなすべきか。

詰まるところ、それは彼らが日本版と頭でなく、心で出会うこと、その意味で日本版を再発見することしかないのではないか。 

そして、それは「言うは易き、行い難し」。こういう人たちは日本版についていくら新しい知識で物知りになったところで、心で出会わない限り、参加しないのは永遠に変わらないから。
だとしたら、そもそも「心で出会う」とはどういうことなのか。
それが決定的な問題のような気がする。
それについて、ひとつの手がかりを示したいと思う。
それが「音楽との出会い」「音楽家の再発見」

3、ひとつの手がかりーー音楽との出会い
私は、音楽とは人の一生を左右するインパクトを秘めた体験だと確信している人間のひとりだ。理由は私自身、これまで何度も、或る音楽と出会うこと、再発見することで、あるいは或る音楽家と出会うこと、再発見することで人生の転機を迎えた経験をしてきたから(その詳細>こちら)。

小沢征爾はこう言っている。

音楽はうんと個人的なもので成り立っている。それが大事だと思うんだ。だから、レコードが何万枚売れたとか、有名だとか、超一流だとか二流だとか三流だとか、ヘッポコだとかは重要ではないわけ。一番大事なのはね、もしかすると、人間と音楽が根本的にどこでつながるかにあるんじゃないだろうか。(武満徹との対談「音楽」)

ところが、今日、人間と「音楽との出会い」が危機的なまでに困難になっている。そう警鐘を鳴らすのは武満徹。彼は次のように言っている。

私たちは、いま、個々の想像力が自発的に活動することが出来にくいような生活環境の中に置かれている。眼や耳は、生き生きと機能せず、このまま退化へ向かってしまうのではないか、という危惧すら感じる。

 これが彼の遺作「私たちの耳は聞こえているか」。

そこで、彼は、退化する我々の耳に抗して自分の仕事をこう定義している。

進歩というものに騙されてはならないのです。人間は二つの石をこすって火を作り出しました。それから、これまで火を生み出す原子力を発明しました。私の音楽家としての役目は、石の摩擦が爆弾よりはるかに創意に富んでいることを分からせることなのです。
私のつとめは、人間の裡にその自然の感覚、その自然の感情をよびさましてやることなのです。

実は、これと同様のことが日本版にも言えるのではないか。日本版を伝えるとは、相手の人の心の裡に、放射能被ばくという自然からの脅威の感覚、それが人間の身体を含め、他の自然に対して途方もない破壊をもたらすという自然の感情をよびさましてやることであり、その覚醒を通じて、この事態の是正への何物にも替え難い希求の感情を呼び覚ますことである。

そのためには、相手の心の前に、まず相手と向き合う私たち自身の心の裡にある自然の感覚をもっと研ぎ澄まし、もっと深く、もっと広くしていくことが必要になる。「作曲家は作曲をするんじゃなくて、まず一番最初の聴衆じゃなくてはいけない」(>動画)とその大切さをくり返し説き続けてきた武満徹。彼は、盟友アンドレ・タルコフスキーが亡くなった時、彼の「ノスタルジア」のラスト(>動画)について、こう語っている。

あれは凄かったな。彼は言い知れぬヴィジョンを持っていて、しかもそのヴィジョンは他人に見せたいというものではなくて、何よりも自分が見たいんですよね。そこが彼の素晴らしい芸術家たるゆえんでしょうね。人に見せることが巧い映画監督は、いっぱいいますからね。例えぱジュリアン・デュヴィヴィエなんかそうですね。だけど、自分は何を見ているのかよく分からないという感じです。つまり、タルコフスキーは、内的な衝動に非常に潔癖で、純粋で、エゴイストだった。それが僕らを感動させるんですね。

日本版も同様です。他人にどううまく伝えることではなくて、まずは自分自身がどう伝えたいと感じているのか、実はそれがよく分かっていない。私自身がどう伝えたいのか、他人に伝えないではおれないビジョンをどう掴んでいるのか。その内的な衝動に誠実であること。それがあって初めて他人の心に伝わり、揺さぶる。
だから、他人にどううまく伝えるかを考える前に、次のように、私たち自身の心の裡にある自然の感覚をもっと研ぎ澄まし、もっと深く、もっと広くしていくことが必要ではないでしょうか。
武満徹は言う。

音なんてね、実は、ひとつとして同じ音なんてないはずなんですよ。

耳をすませば

同様に、放射線なんて、実はひとつとして同じ放射線なんてないはずなんですよ。それを西洋流の量の論理でもってひと括りなんかできないはず。その自然(放射線)の「真っ暗闇」に対し、もっと謙虚になるべきなんだ。それが私が武満徹から授かった次の問いだ。
そして、これらの問いが私にとって、私たちを「ゆでガエル」にさせ、私たちの感性を全面退化させる「脳化社会」から一歩前に出て、脱「脳化社会」に向かう最初の一歩だ。

私たちの耳は聞こえているか

私たちの目は見えているか

私たちの鼻は匂っているか

私たちの肌は感じているか

私たちの舌は味わっているか

私たちの骨は動いているか

私たちの脳は動いているか 

私たちの心は愛しているか 

2024年12月27日金曜日

【第25話】いま法律があぶない――「脳化社会」のゆで蛙となった法律家――(24.11.22)

以下は、雑誌「季節」に寄稿した、311後の日本社会の現状を法律の面から述べたもの。

*******************

はじめに――「バカの壁」の衝撃――

311後の日本社会に生じた「法の穴(専門用語だと欠缺)をどうするか」について、その答えは自明で1分で証明できる(注)。けれど、その説明を聞いたところで人は何も変わらず、行動を起こさないと思う。
 ちょうどそれは、先日の「小中学生の不登校が過去最高、いじめも重大事態」という文科省の発表で、その解決として「子どもらに優しく寄り添い、居場所づくりが重要」という専門家の説明を聞いて誰も反対しない代わりに、それで問題が解決するとは誰も思わない、これと似ている。そこでいったい何が問題なのか、誰にもその壁は見えず、その光景はさながら盲人が盲人の手を引いて破滅に向かって歩いていくブリューゲルの絵のようだ。

それは決して寓話ではなく現実の出来事である。何が問題なのかそれが分からないまま、「解き方」を間違えてどうしても解けなかった現実として、数学史の有名な出来事が五次方程式の解法。 

+2x+3x+4x+5x+6=0

このような五次以上の方程式は加減乗除の方法で解くことが(一般には)できないことは1824年、アーベルの手で初めて証明されたが、それまで数百年にわたって、これを加減乗除の方法で解けるという信念を抱いた者たちによって空しい努力が積み重ねられてきた。
 この数学の迷妄の歴史はいつまで経っても解けない不登校、いじめ問題の鏡であり、「解き方を間違えているのではないか」という自問自答は何度でもくり返す価値のある訓えである。

「法の穴をどうするか」という問題も同様で、どうやら私たちはこの問題の「解き方」を間違えているのではないか。それがこの間、この問題を考えてきてようやく見えてきたことである。そこに、不登校やいじめと同様、見えない壁があることに今、ようやく気づいたのである。その気づきを以下、子どもたちを語り部にコトバにしてみる。

「いま法律があぶない」の意味

12年前、ふくしま集団疎開裁判のブックレットを緊急出版した。それが「いま子どもがあぶない」。信じられないくらい恐ろしいことに、その事態は放置されたまま、この間何一つ変わっていない。12年後の今年、その子どもたちが「わたしたちは見ている」という題で、もう1つのブックレットを緊急出版した。子どもたちがそこで訴えたのは――「いま法律があぶない」。あぶないのは、日本に原発事故であぶない目に遭っている僕たち子どもたちを救済する法律がないこと。だが、それだけじゃない。もっとあぶないことがある。それは、この法律がないという異常事態を異常だと気づいていない大人たちのことだ。バカは死ななきゃ治らない。それで大人が勝手にくたばるのはしょうがないとしても、僕たち子どもまでその巻き添えにするなよ、それって冤罪だろ‥‥

「いま法律があぶない」。これを訴える子どもは裸の王様を笑う少年と似ている。なぜなら、法律も裸の王様の服と同じで、誰にも見えないし、臭わない、手でさわれない存在だから。その子どもに笑われている王様は法律の専門家と言われている人たち(あんたもその端くれだ)。

 福島原発事故のあと、「いま子どもがあぶない」と本気で思い、放射能から子どもを守ろうと言う人たちはたくさんいた。それに対し、「いま法律があぶない」と本気で思い、原発事故から被災者を救済する法律が存在しないことがどんなに異常かと言う人は、法律家ですら誰もいないんじゃないか。真面目に放射能問題と取り組んでいる法律家の中ですら「いま法律があぶない」と声をあげるのを聞いたことがない。福島原発事故は原子力ムラの頭に「安全神話に眠りこけていた」己の姿をたたきこんだように、実は、福島原発事故は法律家ムラの頭にも「法律の安全神話に眠りこけていた」己の姿をたたきこんだんだ。それにもかかわらず、殆どの法律家は再び「法律の安全神話」の中に眠りこけていき、半世紀前の公害国会の時のような大改正が必要だと思う力もなく、日本の法律は311後も安泰だと考えた、どこにも何の根拠もないのに。

いったい、この「法律の安全神話」現象をどう理解したらよいのだろうか。
僕たち子どもたちの目には、法律家たちはゆで蛙のように、いつの間にか「一億総白痴」になってしまったかのように見える。その証拠に、法律家たちには、きっと、僕たち子どもたちの不登校、いじめが「環境問題」だということが分かっていない、大人たちが作り出した「脳化社会」という環境のヘドロだということが分かっていない。それは殆どの法律家が無意識のうちに「脳化社会」を受け入れ、良心的な法律家もその中で「脳化社会」の行き過ぎを是正しようとしているだけで、「脳化社会」そのものと全面的に対決しようとは思っていない。その結果、いつの間にか「脳化社会」のゆで蛙となってしまう。それがこの半世紀間で、公害国会の時のように「法の穴には大改正が必要だ」と確信する力をじわじわと法律家が喪失してしまった理由じゃないのか。

 「脳化社会」のゆで蛙となった法律家は、無意識のうちに、法律がこの世界をカバーしていると信じている。「脳化社会」は人間の意識が自然界も人間世界も支配・制御できるという信念に支えられているものだからである。その結果、今まで経験したことのない未知の事件、紛争もすべて既存の法律の中にその答えが用意されていると信じ、その答えを論理的な操作を使って引き出すこと、それが職業的専門家の法律家の任務であると信じている。無意識のうちに、こうした信念・信仰に取りつかれている、それが今の法律家。このような信仰に立つ者に「いま法律があぶない」という認識を期待するのは不可能である。

「法の穴」の克服は「脳化社会」の外に一歩出ること

 だとしたら、お先真っ暗だろうか。そう思うのも依然「脳化社会」の塀の中で考えているからだ。塀の外には未知の世界が広がっていて、「いま法律があぶない」と、素直にその認識に立てる人たちがいる。
その一方が、まだ「脳化社会」に順応しない、自分のことを自然の一部と感じる感性を失わない僕たち子どもたち。
他方が、もう「脳化社会」に順応する義理も義務もなく、もっぱら己の信ずる道をきっぱり行くだけの大老人たち。他に先駆けて、水戸喜世子さんが「法の穴」を認識し、その対策を訴えたのは彼女が脱「脳化社会」の、自然児のような大老人だったから。

そして、これら脱「脳化社会」の野生児、自然児、大老人たちによる「法の穴」の克服の道も、言うまでもなく、世界を支配・制御する人間の意識の産物(法律専門家による制定法)なんかではなく、意識の世界の外にある、生身の自然と人間がひしめいて作り上げている社会の中でおのずと生まれ、発展し、形成されていく規範、つまり生成法=「生きた法」である。それが「脳化社会」の外にある世界で生成される「生きた法」の探求に一生を捧げたオイゲン・エールリッヒの「法社会学」の考え方。この「生きた法」の生きた現場、「生きた法」が今も活き活きと生成し続ける場、それが私にとって「日本の中の外国」である関西の汲めど尽きない可能性である。

(24.11.4)

(注)以下は、私が初めて「法の欠缺」を裁判(避難者追い出し裁判)で正面から主張した内容である(2021年5月14日の弁論期日の報告こちら)。

(3)、本件の特筆すべき事情

①のみならず、本件における災害救助法等の解釈においてはさらに重大な問題が存在する。それは本件には他の事案に見ることのできない特筆すべき事情が存在するからである。それが、2011年3月の福島原発事故発生に伴い判明し‥‥

④そこで、この立法的解決の怠慢に代わって登場したのが、人権の最後の砦とされる裁判所による司法的解決である。それが、「国内避難民となった原発事故被災者の居住権」問題について災害救助法等の深刻な全面的な「法の欠缺」状態に対して、法律の解釈作業を通じてその穴埋め(補充)をすることである。そこで、本件において、災害救助法等の「法の欠缺」の穴埋め(補充)の解釈において、重要な法規範として主導的な役割を果すのが上位規範である条約、とりわけ従前より国内避難民の居住権問題と積極的に取り組んできた国際人権法である。

⑤以上、本件において特筆すべき事情として「国内避難民となった原発事故被災者の居住権」問題について災害救助法等の深刻な全面的な「法の欠缺」状態であるという点においても、災害救助法が「国内避難民の居住権」を保障する国際人権法に適合するように解釈されなければならないことの必要性・重要性を強調しておく(被告準備書面()。全文pdfこちら)。

参考

ふくしま集団疎開裁判のブックレット


チェルノブイリ法日本版のブックレット



2024年12月16日月曜日

【第24話】 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えた。まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要がある(1)(24.12.16)

とうとう見つかった。

何がさ? 

法律の終焉が。

海に沈む太陽のように。


そして、また見つかった。

何がさ? 

生成法の準備が。

大地から昇る太陽のように。

(アルチュル・ランボオ「地獄の季節」の「永遠」ヴァリエーション)

以下は、11月30日の大阪・高槻市でやったチェルノブイリ法日本版のお話会で配布したレジメに加筆したもの。

1、なぜ、チェルノブイリ法日本版の制定のために、まだ誰によっても書かれたことのない「脳化社会の塀の外に出た法律」を準備する必要があるのか。

それは、これまでの私たちの法律つまり 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えたから。

2、なぜ、 「脳化社会に安住する塀の中の法律」は終焉を迎えたのか。

それは、 「脳化社会に安住する塀の中の法律」がみずから破綻したことを宣言したから。

3、 「脳化社会に安住する塀の中の法律」はどのように、みずから破綻したことを宣言したのか。

それは311のカタストロフィーに遭遇して、以下のようにみずから破綻を宣言した。

前置き
「脳化社会に安住する塀の中の法律」の未来はその起源にある。
そこで、①.起源についての問い「法はいかにして法律になったか」、そしてそこから、②.未来についての問い「法律はいかにしてその終焉を迎えるか」を明らかにする。

①.法律の起源「法はいかにして法律になったか」

 それは例えば音楽の起源「音はいかにして音楽になったか」と共通する。

 もともと音は自然世界の雑多な音から構成されていた。

 その中から、西洋音楽は音をドレミファのきれいな音に純粋化、知的に再構成していき、そこからはずれる音はノイズとして排除、消されていった(音楽の脳化現象)。
     ↑
太古に、法は氏族共同体の倫理と連続し、雑多な規範として構成されていた。

その後、国家が出現し、例えば秦の始皇帝の時代に法家(法治主義)が採用され、国家統治の柱として、法律は倫理と切り離され、言語として明文化され、専門家により知的に再構成された(法律の脳化現象)。

 この法律の脳化現象は19世紀に頂点に至る。生物が今や「計算生物学」と呼ばれるように、法律もサヴィニーによって「概念による計算」と呼ばれた。法律はその時代の専門家が叡智を絞って作った「計算する方程式」であり、紛争の中から方程式が求める事実(データ)を代入すれば自動的に結論が出力される。その結果、紛争において方程式に乗らない事実はノイズとして排除され、紛争解決から消されていった。これが脳化社会の行き着く先であった。次は、
      ↓
②.法律の未来:それは終焉「法律はいかにしてその終焉を迎えるか」

 それは法律がみずから破綻することを通じて終焉を迎える。

 その自己破綻が「法の欠缺」。しかもそれは個別のちっちゃな「法の欠缺」ではなくて、全面的で大規模で、なおかつ欠缺状態が放置され打ち捨てられた壮大なゴミ屋敷としての「法の欠缺」のこと。

 これに該当するのが311後の原発事故の救済に関する「全面的な法の欠缺状態の放置」。

つまり、311福島原発事故を起こしていながら、その救済が必要なのは重々分かっていながら、その救済法を制定しない。原発事故の救済に関して全面的な法の欠缺状態にあるのだから、本来なら、速やかに具体的、現実的に必要かつ十分な救済法を立法すべきである。にもかかわらず、実際には何一つ制定しないまま、ゴミ屋敷のように放置(ネグレクト)している。この法律のゴミ屋敷は何を意味するか。それは、法律が自ら破綻したことを宣言したにひとしい。つまり、311後の日本社会の法律は原発事故の救済という最も重要な法律において自ら破綻した。そして、この破綻を通じて、法律は終焉を迎えたのだ。

だが、それは「法規範」の終焉ではない。「法規範」は法律より広く、深い。終わりを迎えたのは上記で述べた法律の起源「法はいかにして法律になったか」で誕生した法律のこと。それは「概念による計算」(概念法学)を本質とする法律だった。311で迎えたのは単にこの法律が終焉を迎えただけのこと。
実は、法律にはもうちょっと複雑な変遷がある。それは、当初の「概念による計算」という法律は、革命と戦争の世紀と言われる激動の20世紀に破綻し、「自由法論」に代わってしまったからだ。しかし、「自由法論」もまた、法の目的は「社会生活への奉仕」を旗印に、その目的達成のために法律を臨機応変に解釈・運用することを掲げたけれど、そこに言う「社会生活への奉仕」とは「脳化社会への奉仕」のことであり、脳化社会がもたらす病理現象の解決という根本的な問題意識は見出せなかった。つまり、概念法学と自由法論の論争もしょせん、脳化社会というコップの中の嵐でしかなかったのだ。

 だから、脳化社会の浸潤の進行により、やがて自然世界との均衡が崩れ、深刻な環境問題が出現したとき、「自由法論」もまた破綻、機能不全を露呈する。そればかりか、自殺・いじめ・引きこもり・不登校・ハラスメントなどの増加に対しても「自由法論」は無力である。もともと脳化社会で制御可能なのはデータと計算式で対応できる部分だけ。そんなものは無限の情報が詰まった自然世界からみたら氷山の一角にすぎない。自然世界の大部分は依然「真っ暗闇」。だから、「自由法論」が「社会生活への奉仕」を旗汁にどんなに精度をあげても、しょせんそれは「脳化社会に奉仕」する法律であり、そうである限り、無限の情報が詰まった現実の紛争の豊饒さに比べたら屁の河童、手も足も出ない。その典型が放射能問題の極限形態である原発事故である。

自然世界からリベンジを受けた原発事故の救済について、「脳化社会に奉仕」する自由法論が破綻するのは必至である。その破綻の姿が原発事故の救済について、あたり一面のノールール(全面的な法の欠缺)の放置(セルフネグレクト)である。この破綻を通じて、概念法学と自由法論の法律はともに終焉を迎えた。今、我々に必要なのは、終焉を迎えた法律に代わる新たな法規範である。

もはやそれは、従前の概念法学や自由法論の法律のような「脳化社会の塀の中の法律」ではあり得ない。ジュネーブの城壁から外に出て「社会契約論」を書いたルソーのように、わたし達も脳化社会の塀の外に出て、その中で「脳化社会の塀の外に出た法律」を構想するしかその可能性はない。以下、このメガネをかけて考える(続く)。

2024年12月13日金曜日

【第23話】 つぶやき(4):脳化社会と自然世界との対立・葛藤を描いた日本の歌「木綿のハンカチーフ」(1975年。作詞松本隆 作曲筒美京平)

【椎名林檎】木綿のハンカチーフ【MotoMV】

半世紀前の、
  
  恋人よ ぼくは旅立つ

  東へと向かう 列車で
  はなやいだ街で 君への贈りもの
  探す 探すつもりだ

  いいえ あなた 私は
  欲しいものは ないのよ
  ただ都会の絵の具に
  染まらないで 帰って
  染まらないで 帰って

から始まる歌「木綿のハンカチーフ」。
このあと、都会へ移り住み、善意に溢れるが足元のふらついている彼と、田舎に残って、善意に溢れ、彼が都市の脳化社会に染まらないことだけを願っている彼女との間で脳化社会と自然世界の対立ーー彼は都会の脳化社会のステイタスを宝物として彼女に差し出すが、彼女はこれをきっぱりと拒絶し、田舎の自然世界の宝物を示すーーそれがくり返し語られる。

    都会で流行(ハヤリ)の 指輪を送るよ
  君に 君に似合うはずだ

      いいえ 星のダイヤも‥‥  
  きっと あなたのキスほど
  きらめくはずないもの

      見間違うような スーツ着たぼくの
  写真 写真を見てくれ

    いいえ 草にねころぶ
  あなたが好きだったの

しかし、とうとう、優しいが足元のふらつく彼は、都会の快適な脳化社会の奴婢から逃れられないと彼女に告白する。

  恋人よ 君を忘れて
  変わってく ぼくを許して
  毎日愉快に 過ごす街角
  ぼくは ぼくは帰れない

これに対し、彼女はどういう態度をとったか。

    あなた 最後のわがまま
  贈りものをねだるわ
  ねえ 涙拭く木綿(モメン)の
  ハンカチーフください
  ハンカチーフください

バッカじゃねえの、この娘は。
せっかく、
脳化社会と自然世界との対立・葛藤をこれほどあざやかにみごとに語ってきたのに、そのラストでなんで、「水に流す」という日本流の決着で台無しにするんだ。
彼女は彼を心から愛していた。だったら、最後までそれを貫け。
そのとき、彼女は、彼を張り倒すべきだった、あんたは何、寝ぼけてるんだ!と。快適な脳化社会の罠から目を覚ましなと。
それが彼にとって、一生忘れられない、目の覚めるような一撃になったはずだ。

例えば、こんな風に。

 あなた、最後のひとこと
 私の好きな映画を贈るわ
 ねえ、涙流す「道」の
 ラストシーンをみてください
 ラストシーンをみてください

             「道」ラストシーン(1954年)

これが残酷だろうか。いや、これこそ脳化社会の罠から目を覚まない限り、足を地につけた堅実な生き方はできない、そのことを愛する人に伝える最もストレートなコトバだ。
もしもこんなラストだったら、この歌は、歌詞の最初から最後まで、日本最高の歌のひとつになれた‥‥

 

 

 

2024年12月11日水曜日

【第22話】 つぶやき(3):人類は原発でいずれ絶滅するかもしれないが、しかしその前に、人類は既に絶滅危惧種だ、脳化社会の中で「ゆでガエル」にさせられて(24.12.11)

 小出裕章さんは、どうすれば原発は止められるのか、という問いに対し、「今だけ、カネだけ、自分だけ」という価値観を超えるしかないと答えている(雑誌「季節2024年夏・秋」)。

では、どうすれば「今だけ、カネだけ、自分だけ」という価値観を超えられるのか。

それは生物多様性のように様々な答えが可能だろう。

しかし、次の2つの道ははずせない。

「人間と人間の関係」において、人類普遍の原理である人権に立ち帰り、人類同士の共存の実現に向けて人類同士が連帯すること。それがブックレット「わたしたちは見ている」が掲げたテーマ。

しかし、それだけでは足りない。さらに、

「人間と自然の関係」において、生命の普遍の原理に立ち帰り、人類と自然の共存の実現に向けて自然と連帯すること。 これが不可欠だ。ブックレット「わたしたちは見ている」を書いてみて初めてそれに気づくことができた。

なぜなら、原発を止められる人類、そして原発事故の救済を実現できる人類、しかし、その人類は今、絶滅危惧種に仲間入りしている、脳化社会の中で「ゆでガエル」にさせられて。脱「ゆでガエル」を実行しない限り、人類は「今だけ、カネだけ、自分だけ」という価値観を超えることはできない。それが、上の2つの道。

私にとって、これが市民立法チェルノブイリ法日本版でめざすこと、そしてNPO「まつもと子ども留学」が衣替えして新たに再スタートを切る一般社団法人「 信州 無何有の里」のめざすこと。

         Grieg: Lyric Pieces Book IV, Op. 47: No. 3 Melodie

 

【椎名林檎】木綿のハンカチーフ【MotoMV】

2024年11月30日土曜日

【第21話】 つぶやき(2):「意識(脳化社会)は灰色だが、自然は真っ暗闇だ」(24.10.16)

 この夏、自分自身の世界観が最も変わったことの1つが、
意識(脳化社会)は言葉・数字・データ・論理だが、その外にある自然世界は「真っ暗闇」だという見方(メガネ)です。
そして、これを単なる大げさ、飾り文句ではなく、文字通り、受け取るのが正しいのだと思うようになったこと。
これを指摘した養老孟司は例えば以下のように言っている(昔の本と比べ、いまひとつ切れ味が悪いが)。
世界の見方
https://colorful.futabanet.jp/articles/-/2762

ヒトは世界+(自然の世界)から刺激を五感で受け取って、そこから先は世界-(脳化の世界)に入る。まぶしいとか、うるさいとか、暑いとか、硬いとか言う。でも世界+の実体は不明である。カント風に言えば、物自体を知ることはできない
世界+(自然の世界)は真っ暗闇である。そこから少しずつ「事実」を拾ってくる。拾われた事実(情報)がある程度豊かになると、様々な概念が生じ、ヒトは自分なりの世界像を創る。
      ↑
私自身が、この自然世界は「真っ暗闇」であることを思い知らされたのは、先端科学の「素粒子論」を知った時です。以下の動画を見て、物質の世界の真相は「真っ暗闇」じゃん、我々は本当にその一部分だけ、かすかに知っただけにとどまるじゃん、と実感した。

神の数式 完全版 第2回「“重さ”はどこから生まれるのか~自発的対称性の破れ」
https://www.dailymotion.com/video/x8md0ne
     ↑
ここに登場するのですが、それまで電子はどれも一様に回転し、磁石のような性質を持っていたことが分かっていた。ところで、1957年に、その回転に右巻きと左巻きと2種類の回転があって、その性質がちがうことが分かった。
     ↑
ここから、電子をどれもみんな同じ構造、同じ動作、同じ性質を持っているなんてどこにも断言できず、電子にも「多様性」があって、それぞれ異なる側面がある可能性のほうがリアルになってきた。
     ↑
かつて、子ども脱被ばく裁判で、LNTモデルは仮説にすぎないとLNTモデルを馬鹿にした国に対し、ポパーが、科学的真理とはもともと「反証可能性」を前提とした暫定的な真理=仮説にとどまると喝破したことを取り上げ、国に噛み付いた書面を出した。
https://darkagejapan.blogspot.com/2019/02/blog-post_12.html

これは自然の世界は「真っ暗闇」である、ということを言い換えたものです。人間がこしらえた人工的な世界(科学的知見)がいつも「自然界の一部を照らす部分的な真理」でしかなく、自然界の全体からはいつもこれと矛盾する事態が起きるからです。

例えば、放射能でもα線、β線、γ線の被ばくを被ばく線量で評価しますが、果して、電子でも右巻きと左巻きの異なるものがあるように、同じβ線でも、右巻きと左巻きの異なるものがあるかもしれないし、それ以外にも、異なる構造、異なる動作、異なる性質を持っているかもしれない。単に、我々の認識能力不足で、それらのちがいを見出せずにいる可能性が大きい。その結果、それらの違いが、同じ被ばくをしても、相手の人体への影響が異なってくる可能性が当然ある。それを単純に、被ばく線量だけで健康評価しているのは、ものすごい荒っぽい、雑な見方ではないか。

そもそも、一口に放射線といっても、α線は陽子2個と中性子2個からなるヘリウム原子核なのに対し、β線は原子核から飛び出した電子。さらに、γ線は原子核から発生する電磁波と言われる。どうして、こんなに構造も性質も異なるバラバラのものが放射線としてひとつに括られるのか、ちょっと考えただけでも不思議でならない。それは、放射能をα線、β線、γ線として外形的、表面的にしか把握しておらず、これらの3つに共通する本質(電子を吹き飛ばす電離作用)に即して放射能をまだ捉えてないんだと、放射線科学の未完成ぶり、未熟さぶりを痛感する。

それは、長い間、あれだけ内部被ばくの危険性を認識していながら、いまだに、その危険性にふさわしい定量化の表現つまり内部被ばくの単位を見つけていないことにも、放射線科学の未完成ぶり、未熟さを痛感する。

それらの放射線科学の未完成ぶり、未熟さのため、「被ばくの健康影響」に対する認識能力も極めて未熟にとどまっていると痛感せざるを得ない。

数年前に、因果関係の科学的解明のツールとして統計学にその可能性を期待し、取り組みましたが、まだ探求途上とはいえ、この間の検討で感じたことは、どんなにテクニカルな現代統計学を使っても、それで解明できるのはあくまでもデータ同士の「相関関係」にとどまること(原因確率論もみんなそう)、それ以上「因果関係」の世界に踏み込むことはできない。科学として、「因果関係」の手前でとどまるのが統計学の本質的宿命(限界)だということだ。
     ↑
その意味で、科学として「因果関係」に寄与できることはしょせん限られている。そこで、法的に「因果関係」を問うときに重要になるのが、「真っ暗闇」に見える自然世界の中に厳然として存在する「事実」です。それがたとえば病態論。というより、そのような視点で病態論を再発見する必要がある。
そういう目で意識(科学的知見)と自然(病態論)の関係を捉え直したとき、はからずも、原爆症認定訴訟の中で、過去の判例が原因確率論のような科学的知見を決め手とせずに、それに加えて病態論をも加味して、総合的に、法的な因果関係を判断してきたことに、改めて、深い智慧を見るような発見があった。

この意味で、私は、この裁判が始まった最初の夏合宿でやった原爆症認定訴訟の因果関係論--その時は何という煮え切らない、中途半端な総合判断だと軽蔑しかしていなかった--に、「自然界は真っ暗悩みである」という自然認識に辿り着いた今、そこには深い洞察力が込められていることを発見し驚嘆している次第です(まだ、ちゃんと復習していないのだが)。

まとまりのない駄文で、失礼。

【第20話】 つぶやき(1):「意識(脳化社会)は灰色だが、自然は真っ暗闇だ」(24.10.16)

 今年10月、或るMLに書いたつぶやき。

この夏、自分自身の世界観が変わった。中でも最も変わったのが、意識(脳化社会)は言葉・数字・データ・論理だが、その外にある自然世界は「真っ暗闇」だという見方(メガネ)。そう指摘したのは養老孟司。

その結果、被ばくと甲状腺がん発症の「(事実的な)因果関係」もまた、脳化社会の外側にある自然世界の出来事であり、それは我々にとって「真っ暗闇」の話なんだという認識です。
これに対し、これまで自分なりに、脳化社会の構成要素である言葉・数字・データ・論理(統計学)を使って自然世界の出来事である「(事実的な)因果関係」を解明しようとしてきたが、そこで「科学的知見である現代統計学を正しく駆使すれば、(事実的な)因果関係も解明可能であるという信念(正確には信仰)で取り組んできた。しかし、その取組みの末に分かったことは、そこには根本的な思い違いがあり、それは言葉・数字・データ・論理(現代統計学)は「真っ暗闇」をかすかに照らす手がかりにとどまる、という認識の見直しだった。これは、それまでの私にとって、コペルニクス的転回だった。

なぜ、この見直しが必要かというと、現代社会は脳化が暴走し、脳化社会を構成する要素である意識(言葉・数字・データ・論理)でもって、自然世界を置き換えていいんだというところまで考えるようになり、意識(言葉・数字・データ・論理)が自然世界(現実)に置き換わってしまった。
その結果、言葉・数字・データ・論理でもって整合性をもった説明さえできればそれを現実とみなしてよい、と思い込むようになった。
その結果、現実は言葉・数字・データ・論理によってどんどん貧しくなり、どんどんやせ細っていき、言葉・数字・データ・論理だけのAI的な世界になっていった。「セクハラ」「○○差別」といった決めセリフや呪いの言葉の応酬が日常化した。
     ↑
これに最も反発、反逆、反動したのが自然としてのヒトの身体。
私には、311の数年後、3歳で東京から長野県松川町に移住した孫がいるが、彼は小1からバリバリの不登校児で、お昼に給食だけ食べに行くという動物的な孫を見ていて、彼が引きこもりなのはギスギスした息苦しい脳化社会に対する身体の素直な反応で、むしろまっとうなんじゃないかと見直すようになった。
この「脳化社会に猛反発、反逆、反動する身体」の深刻な現象については自死、鬱、いじめ、引きこもり、様々な「ハラスメント」現象から、腰痛、アトピー、不眠など様々な健康障害まで、今日の至る所に蜘蛛の巣のように切れ目なく発生していて、いわゆる生命、身体、健康に対する最大の加害者は、一握りの権力者どもではなく(彼らも加害者の一味であることは否定しないとしても)、我々が築いた脳化社会自体だと断言していいんだと思うようになった。

そこから、どうこの脳化社会の暴走に立ち向かうのか、という課題が私にとって最大のテーマになった。それは過去最大級の途方もない、大きなテーマで、正直なところ、一瞬、気が遠くなる。他方で、それは、因果関係を現実の症状から再構成といったふうに、現実の甲状腺がん裁判そのものの取り組みにももろ影響する課題だ。

なので、そのためにも、もう一度、
脳化社会の外側にある自然世界は我々にとって「真っ暗闇」の話なんだという認識について、 リアルな実感を抱くようになったいきさつについて、長くなったので、別便で書く。


2024年11月29日金曜日

【第19話】 理想の「未来の政治」は、甲野善紀の身体論の中にある(24.11.29)

 脳化社会の塀の外にみずから出た勇気ある人のひとり、甲野善紀。

 彼から触発されたことの1つ。それは、

 理想の「未来の政治」は、甲野善紀の身体論の中にある。

つまり、

理想の「未来の政治」のエッセンスは、これまでの政治から「権力」を抜き去ることにある

その結果、権力を抜き去った政治自身が持つ、未知の力、それが相互扶助、友愛に基づく人権の力。これに導かれて様々な政治の課題が解決できる。

他方、

甲野善紀の身体論のエッセンスは、これまでの身体論から「力に基づく動作・鍛錬」を抜き去ることにある。
その結果、力を抜き去った身体自身が持つ、未知の力に目覚め、その力に導かれて様々な身体の課題が解決できる。 

例えば、甲野は身体全体を使うことを強調する。これと同様、政治においても市民全体が動くことが「未来の政治」の決め手になる。

そして、政治において、権力を使わずに、未知に力に導かれて、どうやって政治が回り、有効に働くのかについて、甲野の身体論から触発されるところが大。



2024年11月14日木曜日

【第18話】「脳化社会」の最悪の人権侵害者である「脳化社会」そのものは、侵害の目的達成のためにみずから最良の手段方法を発見し駆使している(24.11.15)

 「脳化社会」の最悪の人権侵害者が「脳化社会」そのものの中にあることは先ほど述べた通り(>【第17話】)。

ところで、そこでの人権侵害の手段・方法は「ローマは一日にしてならず」の通り、「脳化社会」が長期間にわたって総力をあげて発見した、彼らにとって智慧の賜物、最重要情報である。
一言で言って、それは「人権保障」の手段・方法と驚くほど似ていて表裏一体である。なぜなら、

1、掲げるスローガンは「誰も反対できない」「反対しない」ものに仕上げること。

2、その達成のプロセスは「一歩前に出る」つまり「ローマは一日にしてならず」を肝に銘じて一歩一歩前に出て侵害を完遂すること。

3、不快を避け、快を求めようとするなどの人間性に根ざしたやり方で、人々から主体性、自主性を剥奪すること。つまり、安全・安心・快適などをアピールして、人々から自己決定の一任を取り付けること。
      ↑
このうち、1と2は人権保障にもそのまま妥当するとしても、3はそのまま使えない。
つまり、人間性は無視できず、これを踏まえた時、そこからどうやって人々の自己決定を確保するか、それが問題となる。
      ↓
つまり、安全・安心・快適な環境、暮らしを実現するために、いかにして市民自身の自己決定を確保するか。
そのためには、
(1)、前提として、己自身の生活全般において、自己決定が隅々まで実行されていること。
(2)、安全・安心・快適な環境、暮らしの実現においても、セルフケアを原則にすること。
(3)、その上で、セルフケアの限界については、市民のネットワークを通じて、市民主導のシステムの構築、必要な情報の相互共有、行政への説明責任、情報開示を実行してセルフケアの限界をカバーすること。
      ↑
(3)の深化、それが次の課題。

 

【第17話】「脳化社会」の最悪の人権侵害者は「脳化社会」そのものの中にあり、その最大の賛同者にして被害者は「脳化社会」に安住する私たち市民である(24.11.15)

                               子ども脱被ばく裁判 福島地裁判決(2020年3月1日)

子ども脱被ばく裁判と避難者追い出し裁判が明らかにした最大のもののひとつが、人権の始まりであり人権の核心は、私の生き方、私の人生はほかならぬ私自身が選択し、決めるという「自己決定権」にあるということだ。

そこから、私たちが住む「脳化社会」がいかに人権侵害をはらんだ「人権侵害社会」であるかが浮き彫りにされた。なぜなら、福島原発事故に遭遇したとき、少なからぬ市民は、この前代未聞のカタストロフィから身を守りたいと切実に願ったにもかかわらず、前代未聞のカタストロフィから身を守るために選択すべき行動を決定するためには、自前で手に入る情報だけでは到底不十分・不可能であり、そのためには、これに必要な情報を独占している政府と福島県からの情報提供が不可欠だった。にもかかわらず、それを求める市民にその情報は届けられなかった(開示・提供されなかった)からである。
しかも、その悪質極まりない情報隠蔽は(政府や福島県にとって、これほどまでに深刻な原発事故は初体験だったにもかかわらず)何食わぬ顔をして、ぬけぬけと実行されたのである。
なおかつその悪徳行為の最大の被害者である市民の間からも、2014年のセウォル号沈没事故直後、遺族が朴槿恵大統領の青瓦台に向かって抗議行進したように、福島原発事故発生直後、菅直人首相の首相官邸に向かっての抗議行動はついに起きなかったのである。

セウォル号沈没事故で犠牲になった高校生らの遺族が、朴槿恵大統領との面会を求めて青瓦台に向かって抗議活動。2014年5月9日 ロイター/News1

このとき、なぜ市民の間から抗議行動は起きなかったのか。私たち市民が生涯でいっぺん経験するかしないかの「自己決定権」の行使が問われた、一世一代の瞬間だったにもかかわらず。

それはひとえに私たちが「脳化社会」に安住していたからではないのか。
なぜなら、私たちの住む「脳化社会」は、私たちに「安全・安心」な快適な環境を保障する代わりに、その代償として私たちに「脳化社会」が出す指示、命令に唯々諾々と従うことが暗黙の掟になっているからだ。その見えない「掟」が私たち市民にとってどれだけ強力なものか、それはカフカが「掟の前で」で描いた通りだ。

福島原発事故が起きるまで、原子力ムラは「安全神話」の中で眠っていたと批判されるが、眠っていたのはなにも原子力ムラだけではない。「脳化社会」に安住する限り、私たち市民はみんな眠っていたのだ。 だから、福島原発事故で無知の涙を流して覚醒した一部の人たちを除いて、「脳化社会」に安住していた市民は、原発事故後も引き続き、「脳化社会」を疑うことをせず、「脳化社会」が出す指示、命令に、内心はものすごく不信、不快だったにもかかわらず、表向きは唯々諾々と従ったのだ。その結果、他方で、彼らは原発事故から身を守りたいと切実に願ったにもかかわらず、その実現のために必要な抗議行動に出ることができなかった。これは一世一代の痛恨事だ。

 市民は「脳化社会」に安住する意識にとどまる限り、願いを実現するために必要な行動に移せなかった。それは生涯悔いても悔い切れない痛恨事である。

この痛恨の経験が教えることは、私たちを覆っている「脳化社会」こそ私たち市民の自己決定権を不断に奪い去る、最悪の人権侵害システムだという訓えである。この痛恨をくり返さないためには、一度は本気で、「脳化社会」の掟と対決する必要がある。

私たち市民団体が今月8日に提訴した、ゆうちょ銀行の口座開設不当拒否裁判は、「脳化社会」の掟と対決するささやかなアクション、一歩前に出る行動である(その詳細こちら)。

 

【第16話】「脳化社会」最先端を行く中国で、一歩前に出ることをやめない人、閻連科は言った「今の中国ではどんなことも起こり得る」(24.11.14)。

関連ニュース
11月16日江蘇省無錫の学校で、刃物を持った男が襲撃、8人死亡17人けが(>詳細)。
10月28日北京の路上で、刃物を持った男が襲撃、未成年3人を含む5人けが(>詳細)。
10月8日広州の路上で、刃物を持った男が襲撃、未成年2人を含む3人けが(>詳細)。 
9月30日、上海のスーパーマーケットで、刃物を持った男が襲撃、3人死亡15人けが(>詳細)。
9月18日、広東省深圳市の深圳の路上で、刃物を持った男が襲撃、日本人児童1人死亡(>詳細)。
6月24日、江蘇省蘇州の下校中の日本人学校のスクールバスで、刃物を持った男が襲撃、日本人親子がけが中国人女性1人死亡(>詳細)。
 
NHKニュース(24.11.13)

               
昨日のニュース「中国広東省で乗用車1台暴走、35人死亡、43人けが」。いったいどうやったら1台の乗用車でこれほどたくさんの人が死傷するのか。
閻連科

中国の作家閻連科は2012年にこう書いた。
今の中国ではどんなことも起こり得る

彼は、その翌年出版の小説「炸裂志」で、人口数千人の寒村が開放経済政策で瞬く間に一千万人を超える大都市に変貌した村を舞台に、経済至上主義のもとで、それまで普通だった人々が商品に化し、カネを熱狂的に追求する怪物に変貌するさまを、カネと権力が一緒になれば不可能はないさまを描いた。むき出しの富への欲望に牽引されて、どんなことも起こり得る中国を描いた。
昨日のニュースの自動車殺傷事件は、この小説の舞台のすぐ隣りの町、同じように開放経済政策で瞬く間に大都市に変貌した珠海で起きた。


その12年前の2001年、彼は、小説「硬きこと水のごとし」で、1966年から10年間続いた中国の文化大革命で献身的な若き革命家が銃殺刑に処せられる目前で語る回想録ーーそれは、政治至上主義のもとで、それまで普通だった人々が政治的人間に変身し、権力を熱狂的に追求する怪物に変貌するさまを、権力と暴力が一緒になれば不可能はないさまを描いた。むき出しの権力への欲望に牽引されて、どんなことも起こり得る中国を次のような語り口で描いた。

軽々と目的を達成し、王鎮長を打倒しただけではなく、彼を監獄に送り、彼を現行反革命分子にし、二十年の刑にしたのだ。これは意外なほど簡単で、俺と紅梅は革命の魔力と刺激を心から感じることができ、‥‥そして、どうしてこの時期に、メクラも半身不随も、どんくさい豚も犬のクソ野郎も革命をやりたがり、みんな革命を起こすことができ、みんな革命家になりたいと思い、革命家になることができたのかという根本原因がどこにあるか分かったのだ。

文化大革命も開放経済政策も、それは政治と経済の分野のちがいはあるものの、どちらも人間の欲望をエサにして、社会をとことん作り変えようとする「脳化社会」の実験場だった。その狂走の末に、いま、中国社会はカネと権力が一緒になれば不可能はないと考える、誰一人まともな者はいない「脳化社会」の成れの果てを迎えている。

 いわば暴走する「脳化社会」列車に乗った中国の運転手たちは、今や茫然自失としている。その中にあって、今迎えている「脳化社会」の成れの果てをさらにもう一歩前に出ることをためらわず、やめない人がいる。それが閻連科である。

彼はまるで、かつて際限のない殺戮に陥った宗教戦争の成れの果てに、宗教的寛容という世界最初の人権が出現した人類の奇跡の瞬間を、再び、「脳化社会」の成れの果ての中に見つけ出そうと、気魄をみなぎらせ、掘り進む探求者のようだ。

その中国が開放経済政策でモデルにしたのが日本。その日本に追いつけ、追い越した中国が今迎えた「脳化社会」の成れの果て。そのゴミ屋敷の中で起きた昨日の中国ニュース、それは明日の日本の姿。つまり日本も、これからどんなことも起こり得る国になる。
しかし、私たち市民が明日のモデルにするのは中国のゴミ屋敷だけではない。それが、「脳化社会」の成れの果てと向き合い、そこから一歩前に出ることをためらわず、やめない人、閻連科の行動である。

私がチェルノブイリ法日本版と取り組むのは「脳化社会」の成れの果てを迎えた日本のゴミ屋敷から一歩前に出るためであるが、閻連科はそのための最良のモデル、そして百年前の魯迅に続いて遭遇した朋輩である(つつしんで老年に告ぐ「老年よ、大志を抱け」)。

 

2024年10月31日木曜日

【第15話】もともと「自然界は真っ暗闇である」、「放射能は魑魅魍魎とした世界」なのは当然(24.10.1)。

Xさん

昨日も浦和まで参加いただき、ありがとうございました。
また、早速にご丁寧なメール、ありがとうございました。  

終わったあとのお茶会は楽しかったのですが、あそこで、私の養老孟司への傾倒ぶりが不評であることもお分かりになったかと思います。それは、単に私が養老孟司に傾斜しているから、だけではなく、養老孟司の脳化社会への容赦ない批判がみなさんたちにとって不気味で、気持ち悪いからなんだと思います。

さきほど添付したプレゼン資料のラストのほうの「認識の壁」にも書きましたが、
私自身、脳化社会と対立する自然界というのは実は私たちがほとんど認識できない不可知な実在であり、それゆえ、自然とは私たちの意識にとって不気味で、気持ち悪いものです。そして、私自身、そのことにもっと謙虚、鋭敏、自覚的にならなくてはと反省、痛感しました。
今月、彼の「年寄りは本気だ」という対談の中で、自然のことを真っ暗闇の世界だと表現しているのを読み、そうだ、その意味で、放射能とは最も自然らしい自然、人間からみたら魑魅魍魎としか思えない不気味な存在なんだということを受け入れる必要がある、そこから放射能の問題にどう向き合うかも(つまり、普通の人々がなんで放射能を忘れたがっているのか、その根本的な理由について)おのずと明らかになるのではないかと思いました。

この気づきは、かつて、カントが認識できない対象のことを「物自体」と呼んだことを、柄谷行人のカント論から知ったとき、ただし、物自体がどのようなイメージを持つものか、そのビジョンはついに分からずじまいのままずっと来ましたが、今回、養老孟司から初めて、この物自体のビジョンを教えてもらったような気がして、その意味でも、私は彼に傾倒しないではおれなかったのです。
Xさんが書いていた、

自然現象としての原発事故後と社会現象としての原発事故を分離して理解していたのですが

前者は「自然と人間」の関係のこと、後者は「人間と人間」の関係のことです。そして、この2つは、「自然と人間=人間と人間」という風につながっています。その繋がり方をどう捉えるかについて、その全貌を把握することは簡単ではないでしょうが、少なくとも、その一面として、
「自然と人間」の関係がベースになって、「人間と人間」の関係が形成される、
と言えると思います。法律の世界はそういう構造になっています、つまりまず事実があって、その事実に基づいて規範(法的評価)が加えられる、という段階構造です。刑法が事実認定の上に立って、法的判断(無罪かいかなる刑の有罪か)が加えられるもの、というのがその典型ですが。

 追伸
1つ言い忘れました。
養老孟司が、「自然界は真っ暗闇である」ことを、「年寄りは本気だ」という本で書いていると言いましたが、ネットでも以下の文にもそのことを述べていますので、備忘録を兼ねてお伝えしておきます。
    ↑
https://colorful.futabanet.jp/articles/-/2762

この間、「放射能は魑魅魍魎とした世界」だと書いてきましたが、ただし、それは放射能に限ったことではなく、そもそも「自然界は真っ暗闇」なんだから、放射能が真っ暗闇なのは或る意味で当然です。尤も、真っ暗闇の闇にも質の違いがあり、この点で放射能は群を抜いており、この意味で、私は脳化社会が行き着いたひとつの到達点が放射能を使う核の科学技術である、と理解しています。
     
とりいそぎ。

 

 

2024年10月7日月曜日

【第14話】マルクスその可能性のもう1つの中心、それが福島原発事故を解く手がかりを与えてくれる(24.10.8)

 かつて、柄谷行人は、マルクスに対して、

彼の可能性の中心は、それまで喧伝されてきたような「生産様式」にあるのではなく、資本論で追及されてきた「交換様式」の中にある、

と喝破し(「マルクスその可能性の中心」)、終始一貫その問題を追及し、これを2010年の「世界史の構造」の中で、これまでの世界史を「交換様式」から体系化してみせた。 それは賞賛に値する一方で、柄谷行人が明らかにしたいと考えた未来の「交換様式X」については、依然、霧に包まれ、謎めいていた。つまり、真っ暗闇が覆っていた。

他方、その翌年起きた福島原発事故に対して、上の成果がどう活かされるのか、少なくとも私には不明だった。しかし、その新たな問題も、次のマルクスの指摘によって解決の手がかりが与えられることを知った。それは、マルクスその可能性のもう1つの中心である。

これまで、「交換様式」はたいがい「人間と人間の関係」の中で考えられてきた。柄谷行人の「世界史の構造」もそうだ(以下の彼の図式を参照)

しかし、「交換様式」は「人間と人間の関係」に限られない、「自然と人間の関係」の中でも生じる。それを考え、指摘してきたのがマルクス。そのことを柄谷行人は「世界史の構造」の序説の「5 人間と自然の『交換』」の中で指摘した。しかし、それ以上、本論の中では殆ど取り上げないできた。それをより正面から取り上げたのが、その後に書かれた「『世界史の構造』を読む」の『震災後に読む「世界史の構造」』だった。彼もまた、福島原発事故を経験して、「自然と人間の関係」の中での「交換様式」が平時ばかりではなく、原発事故という異常事態時の中で考えなければならないことを実感した。

そこにもう1つのマルクスの可能性があるばかりか、そこにこそ、彼が明らかにしたいと願いながら、依然、霧に包まれ、真っ暗闇の謎の中にいた未来の「交換様式X」が明らかにされる鍵が秘められている。

それが大災害(カタストロフィー)時における「 自然と人間の関係」の中での「交換様式」の問題。そして、それが「人間と人間の関係」に及ぼす影響の問題も提起されている。そのことを日本史の激動期について養老孟司は考察している(平安末期、江戸末期、大正末期の大災害)。

その意味で、柄谷行人が「人間と人間の関係」の中での「交換様式」を世界史を4つに分類したが、今、この4分類ごとに大災害が「人間と人間の関係」にどのような影響を及ぼすのか、検討する価値がある。

2024年10月4日金曜日

【第13話】(核実験の)放射能問題についての黒澤明の感受性は完璧、最高だ(24.10.4→12.16)

              「生きものの記録」ポスター


黒澤は、1954年のビキニ環礁の水爆実験の第五福竜丸被爆事件に触発され、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた映画を製作した。その映画について、黒澤明自身、こう書いている。

この映画は、水爆の脅威を描いている。しかし、それをセンセーショナルに描こうとは思っていない。
ある一人の老人を通して、この問題をすべての人が自分自身の問題として考えてくれる様に描きたいのである。

水爆の脅威を「センセーショナル」ではなく、「すべての人が自分自身の問題として考えてくれる様に」と願って描こうとしたとき、黒澤はどのような選択をしたか。

彼は、水爆の脅威に対する人間の反応を、脳化社会の中にすっぽり安住している人たちの「意識」に焦点を当てて描くのではなく、脳化社会から排除される自然、ここではヒトの中にある自然、つまり「動物としての本能」に焦点を当てて描こうとした。
それがこの映画の題名「生きものの記録」だ。
この映画の題名ひとつ取っても、黒澤の哲学が明確に示されている。水爆とは現代先端科学の
粋を集めた産物である。つまり人工世界(脳化社会)の成れの果てである。だから、水爆の実施(実験)は、人類の破滅をもたらす、もはや人工世界の管理の手には負えない巨大な自然的世界だ。だから、人工世界(脳化社会)に安住する人々の「意識」では、とても、水爆の脅威という巨大な自然的世界に立ち向かうことは出来ない。つまり脳化社会という人工世界の意識で立ち向かうのは不可能であり、そこで黒澤は、ヒトの中に残された自然的世界の部分、つまり動物としての本能」に立ち戻るしかないと悟った。それが「生きものの記録」という題名にこめられている。この黒澤明の感受性は完璧であり、養老孟司の「脳化社会」論を40年前に先取りしている。

黒澤がこの映画で願ったことは、
ーーこの主人公は、人間としては欠点だらけかも知れない。しかし、その一見奇矯な行動の中に、生きものの正直な叫びと聞いて貰いたいと思う。

これはこう言い換えられる。
ーーこの主人公は、脳化社会の人間としては欠点だらけかも知れない。しかし、その一見奇矯な行動の中に、脱脳化社会の生きものの正直な叫びと聞いて貰いたいと思う。

それは70年後の今日、放射能のゴミ屋敷と化した日本社会に対して、人権屋敷の再建を考える私たちの行動とまっすぐつながっている。人権屋敷の再建=チェルノブイリ法日本版への私たちの行動もまた、脳化社会という人工世界の意識で取り組むのではなく、ヒトの中に残された自然的世界の部分、つまり動物としての本能」に基づいて取り組んでいるからだ。

そのあと、黒澤明が生涯を通じて描きたかったことは、この「脳化社会の塀の外に出て生きる勇気ある生きものの正直な姿」であったことに気づいた時、当時65歳の老年の黒澤がシベリア撮影をしてまで撮りたかった映画が「デルス・ウザーラ」であったことに深く合点がいった。「生きものの記録から36年後に再び、放射能と向かい合う映画八月の狂詩曲を撮ろうとした時、彼はこれを脳化社会に侵されていないおばあちゃんと孫たちの魂の稲妻のような交流の瞬間として描こうとしたのかにも合点が行き、感銘に襲われた。


         「生きものの記録」映画パンフレット1955年8月。


【第12話】(核実験の)放射能問題についての黒澤明の理解は間違っている(24.10.4)

日本を代表する映画監督黒澤明、彼の代表作とも言える映画「七人の侍」 、上映された1954年に多くの人々から熱狂的な支持を受け、彼はこの作品で映画監督として頂点を極めたと認められた。

その自信に裏付けられて(と思う)、黒澤は翌年、ビキニ環礁の水爆実験の第五福竜丸被爆事件に触発され、原水爆の恐怖を真正面から取り上げた「生きものの記録」を製作、上映する。
しかし、一転、映画館はガラガラ、客は誰も入らず、記録的な大赤字に。

その時の黒澤の苦悩は深く、共同脚本を書いた橋本忍が彼が苦悩する様子を描いている(私と黒澤明 複眼の映像)。
黒澤は、当時、「人々は太陽を見続けることはできない」と、人々が放射能(原爆)の現実と向き合うことの困難さを語った。
かつて、これを読んだ時、そうだろうなと思った。

しかし、いま、それは少し違うのではないかと思い直すようになった。では、どう違うのか。
人が放射能を見続けることが出来ないとしたら、その原因は単に、太陽がまぶしいといった物理的なことが原因と片付ける訳にはいかないと思うから。つまり、人々を放射能から遠ざける最大の原因は、我々が放射能を無条件に忌み嫌い、排除しようとするゴキブリのような存在だからではないか。
言い換えると、人が人工的に作り上げた脳化社会では、安全・安心が確保されるように管理されている一方、管理の及ばない脳化社会の外側にいる自然界の存在は忌み嫌われ、ゴミのように排除される。その典型として、ゴキブリは我々が住んでいる脳化社会の管理が及ばない自然界の存在として忌み嫌われて排除の対象にされている。そして、放射能、原爆や原発事故で社会に放出された放射能もまた、脳化社会の管理が及ばない自然界の存在である。そのように管理の手に余る放射能が脳化社会に安住する人々から、ゴキブリのように忌み嫌われ、排除されたとしてもあやしむに足りない。

他方、太陽は、別に、人々が無条件に忌み嫌い、排除しようとする存在ではない。夏場に、灼熱の猛暑をもたらす存在として敬遠されることはあったとしても。

人々が放射能に向き合うことを避け、これを排除しようとするのは、何よりも、核兵器・原発を生み出した我々の脳化社会が、脳化社会の管理の手が及ばない自然界の存在(放出された放射性物質)を遠ざけ、排除しようとするという「脳化社会」の基本原理・哲学に由来するものである。こう考えたほうがリアリティがある。

【第11話】参考(その2): 【追伸】1つの気づき「交換様式の4つ目は人権のことだ」について

Xさん


柳原です。
今の続きです(これで最後ですが)。

-------- Forwarded Message --------
Subject:     【追伸】1つの気づき「交換様式の4つ目は人権のことだ」について
Date:     Fri, 9 Feb 2024 12:49:32 +0900
From:     Toshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>
To:   


小川さん

柳原です。
スミマセン、あと1つ、また思いついたので、備忘録として。
柄谷行人の「力と交換様式」の4番目の交換様式を、人権で置き換えた時、
今度は人権が新たなものとして見えてくるのが分かりました。
それが、力です。柄谷行人は交換様式が持っているのは力だと。資本制社会(商品交換)であれば貨幣の力。国家制社会であれば国家の力。氏族社会であれば、贈与の力。そして、4番目の交換様式Xであれば、高次元の贈与の力と柄谷行人は言ってたのですが、この「高次元」というのがずっと正体不明でした。
私は、この「高次元」を解くカギが人権にあるのではないかと気づいたのです。
そうすると、人権というのは力として捉えることができる。一見、そうとは見えないのですが、歴史上、贈与や貨幣が(或る種の霊的な)力を持ったように、人権もまた、霊的(観念的)な力を持つのです。それが18世紀からのアメリカ革命の始まる人権の歴史が証明しています。人権宣言をすることで、それがそれだけで人々を震撼させ、それに従う、受け入れるようにさせる力があるのです。
この人権の力に着目することで、ブックレットの意義を見直せるのではないかと思いました。つまり、人権宣言としてのブックレットの発行が、人々に人権の力を思い知らせる、と。

取り急ぎ備忘録でした。




【第10話】参考(その1): さらにもう1つの気づき「交換様式の4つ目は人権のことだ」について

Xさん

柳原です。
この間のメールを書く中で、今年2月に、ブックレットの編集作業の中で新しい気づきに出会った、その内容が、今のテーマと関係していることに気がつきました。
すっかり忘れていたのですが、改めて、重要な気づきだと思ったので、参考までに転送します。

-------- Forwarded Message --------
Subject:     さらにもう1つの気づき「交換様式の4つ目は人権のことだ」について
Date:     Fri, 9 Feb 2024 12:33:36 +0900
From:     Toshio Yanagihara <noam@topaz.plala.or.jp>
To:    

小川さん

柳原です。

今、プールで泳いでいて、ふと、また新しい気づきに出会いました。
それは、柄谷行人が2010年に出した、彼の本では世界で最も読まれている「世界史の構造」の中で全面的に展開した「社会の構造を、唯物論のような生産様式で捉えるのではなく、交換様式で捉える」問題について、彼が、そこで4つの交換様式を提起し、その最後の4番目として、私のみならず台湾のオードリ・タンも注目した「自由と平等を担保した未来社会の原理」としての交換様式Xについてです。
https://gentosha-go.com/articles/-/34442

これって、結局、「自立した個人の平等で自由なアソシエーション」により作られていく社会関係のことなんですね。
だとしたら、それはさっき書きました、協同組合の原理そのものなんです。
だったら、この交換様式Xは人権を言い換えたものにほかならない。
それが分かれば、これまで、世界史の中で、交換様式Xはどのようにして存在、発展、生成してきたかは、人権闘争の歴史を見れば分かる。
逆に言えば、世界史を人権の視点から再構成する時に見えてくるものが、協同組合の原理でもあり、交換様式Xのあらわれなんだと。

なぜ、こんなことにこだわるかというと、これまで柄谷さんは、2001年に、社会をこれまでの唯物論=生産様式ではなく、交換様式で捉え直すことが必要だという発見をし、その中で、未来社会を構成する交換様式として、交換様式Xを提起したのですが、
そのあと、じゃあ、お前が言う交換様式Xって一体何なのか?という問いを執拗に突き詰めたのですが、なかなかその具体的なビジョンを掴むことが出来ずいたのです。彼の最新作「力と交換様式」も、その苦闘の足跡ですが、やっぱり、上記の問いの答えが出ずじまいでした。
この本を読んだ時、もう柄谷行人に期待するのは難しいのかもしれない、自分で答えを見つけ出すしかないと思いました。
そして今、その答えの手がかりを、人権という中に見つけ出したと思ったからです。

そんなだいそれた発見ではありませんが、今まで、柄谷行人すら「人権」という切り口で世界史を再発見する意義に気がつかなかったことを思うと、人権が世界史の認識を大きく変える画期的な一歩になる可能性があると、密かに感じています。それを具体化する一歩が今回のブックレットです。

以下、「力と交換様式」について語った柄谷行人のインタビュー
https://book.asahi.com/jinbun/article/14748689


【第9話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(7) 最後のつぶやき(24.10.4)

Xさん


柳原です。
これで最後です。
それは、自分の中の間違いについてです。
この夏に養老孟司の「脳化社会」論に出会って以来、彼の言い方がそうさせた面もあるのですが、てっきり、
人間対人間の関係は「脳化社会」の世界、
自然体人間の関係が自然の世界
という風に対応づけました。
その結果、「脳化社会」に対する強い嫌悪感に襲われた私は、人間対人間の関係すべてがうとましく、嫌悪しないではおれなくなりました。つまり人間嫌いが再発してしまいました。

今度は自分なりに理論的確信が伴うだけに、その人間嫌いは深刻な面があり、ちょっと社会生活が出来なくなりました。
といって、適当なところで、お茶を濁して折り合いをつけるのも嫌なので、正直、かなり参りました。
      ↓
その結果、今、考えていることは、
1、人間対人間の関係を「脳化社会」の世界と対応づけるのは誤っていること、
2、人間対人間の関係の中にも、「脳化社会」の世界が反映した場面と自然の世界が反映した場面の両方があるということ(尤も、後者は稀でしょうが)、
3、問題は、人間対人間の関係の中に、「脳化社会」の世界の病理を克服し、自然の世界の延長を実現できる世界をどうやったら広げられていけるか、(←この問題提起自体が、いまだ未熟、未完成)。極めて図式的な言い方ですが、従来の人間対人間の関係を自然の世界から再構成してみる(これまで真の芸術家たちが挑戦してきたこと)。

その7は以上。
本当はもっと詰めて考える必要があるのですが、ひとまず区切りをつけるため最後は駆け足になりました。

長々とおつきあい頂き、ありがとうございました。

【第8話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(6) まとめ(24.10.4)

 Xさん


柳原です。
昨日、グダグタとメールしたのは、ひとつにはあなたからの次の質問を検討するためです。

「自然と人間」、「人間と人間」の関係はピラミッドの階層のようなものでしょうか。すなわち、現代社会では「自然と人間」の関係がピラミッドの下部に土台として位置し、その上部に「人間と人間」の関係が位置しており、最上位が脳化の究極状態、核の科学技術などでしょうか。
この言い方は以下の経済決定論(史的唯物論)を思い出させる言い方ですが、
人間社会は土台である経済の仕組みにより、それ以外の社会的側面(法律的・政治的上部構造及び社会的諸意識形態)が基本的に規定されるものと考えた(土台は上部構造を規定する

他方、経済システム自体が「自然と人間」の関係と「人間と人間」の関係の両方を含んでいます。後者が基本的に資本が労働者を搾取する関係だとすると、前者は資本がいわば自然を搾取(=開発)する関係だからです。ただし、(情報は別として)何かを生産するとき、それは人間が自然界のものを加工変形するという意味で「自然と人間」の関係ですが、同時にその生産には基本的に資本が労働者を搾取する関係が伴うという意味で人間と人間」の関係が存在します。
これについて、この2つの関係をどう捉えたらよいのか、という問題があります。
この点について、あなたが書いたように、「自然と人間」の関係がピラミッドの土台であり、土台の上に「人間と人間」の関係が位置する、という見方もあります。さらに、そのように考える理由は何かという問題があり、ひとつには経済決定論の「土台は上部構造を規定する」のように、「自然と人間」の関係が「人間と人間」の関係を規定すると考えてよい、という見方があります。
          ↑
この問題はすでに、経済決定論(唯物論)に対する批判として、ウェーバーから始まって歴史的に繰り返されてきたことですが、その議論がここでまた反復されることになります。
          ↑
私が、この問題にこだわるのは、過去に柄谷行人の次の指摘によって、原発事故に対して、「人間と人間の関係」つまり権力者たちの犯罪を告発することの重要性を確信してきたのに、この夏に至って、養老孟司から、自然の見方について目からウロコの教えを受け、そこから再び「自然と人間」の関係の重要性つまり放射能の魑魅魍魎とした本性を自覚することの重要性を思い知らされたからです。

科学技術(テクノロジー)の問題を、すべて自然科学の中で、つまり自然と人間の関係の中で解決できる、それさえうまくできれば、それで全部、結果オーライだと考える傾向があります(もちろん、それで解決できる問題もあります)。しかしそれは、科学技術の問題を、もっぱら自然と人間の関係でしか見ない発想であって、そこには人間と人間の関係の問題が抜けている。現実に、科学技術(テクノロジー)を左右し、それを押し進めたり止めたりする力が必ず作用していて、それが人間と人間の関係の力です。たとえば国家の力とか、経済の力とか。市民の力とか。そういう人間と人間の関係の中での力が、最終的に科学技術(テクノロジー)の方向が決まるので、そこを無視しては環境問題やテクノロジーの問題、安全の問題は解決できない。
だから、科学技術の災害についても、人間対自然という関係だけではなくて、人間対人間の関係を絶えず念頭に置かなければならないし、むしろ人間対人間の関係のほうが、根本である。
(柄谷行人「世界史の構造 」31~32頁。305~306頁参照)
http://farawayfromradiation.blogspot.com/2014/05/blog-post_5.html
              ↑
この2つの経験を通じて、改めて、「自然と人間」の関係と「人間と人間」の関係をどう捉えたらよいのかについて再考を迫られ、そこで、この間、グダグダと考えていた次第です。
              ↓
以下は、現時点での自分なりの整理です(一応、まとまっていますが、何かが欠けているというのが正直な感想で、それが不満です)
1、「科学技術及びその失敗(災害)の問題を、もっぱら自然と人間の関係でしか見ない発想には人間と人間の関係の問題が抜けている。」という柄谷行人の指摘はあたっている。
2、しかし、だからといって、科学技術及びその失敗(災害)の問題を、人間と人間の関係だけを強調する発想もまた、今度は自然と人間の関係の問題が抜けるという意味で、間違っている。
3、この2つの反省・批判を踏まえて、科学技術及びその失敗(災害)の問題は、自然と人間の関係も人間と人間の関係も、いずれにおいてもその中で発生する固有の問題に十分な吟味検討がなされる必要がある。
4、この3の態度は、実は、カントが真善美について述べた次の問題と共通するのではないか。

リスク評価を、世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持つという構造の中に置くべきである(2018.1.4)
          ↑
その冒頭に、カントの考えが示されているので、そこだけ再掲します。

(1)、我々が世界や物事を判断するとき、①真(認識的)、②善(道徳的)、③美(美的、快か不快か)という異なる独自の3つの次元の判断を持っている。
(2)、この3つの次元の判断はおのおの他の次元の判断から独立して存在している。それゆえ、或る次元の判断を他の次元の判断をもって省略、代用、置き換えることはできない。
(3)、しかし、科学認識、道徳性、芸術性という3つの領域はそれ自体で存在するものではなく、また主観的なものでもなく、それらは、他の次元の判断を括弧に入れること(超越論的還元)によって初めて成立するものである。
(4)、したがって, この3つの次元の判断は渾然と混じり合っていて、日常生活でもその区別は明確に自覚されているわけではない。
(5)、そのため、本来、或る次元の判断が求められるときに、誤って別の次元の判断でこと足れりとしてしまうことが往々にして起きる。
(6)、これらの3つの次元の判断をきちんと区別し、それらを自覚的に行なうためには、それ相当の文化的訓練が必要である。
(7)、以上から、この文化的訓練が、科学裁判や科学裁判においてのみならず、リスク評価においても必要不可欠である。

その6は以上。
別便であとちょっとだけ続きを書きます。
ご容赦下さい。

【第7話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(5)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
今送ったメールの続きです。
さきほど、養老孟司の「正義」批判から
自分が日本版市民運動の新しいスタイルとして、政治・政策から人権にシフト
というやり方もまた、所詮、「脳化社会」の中の小さな嵐(差異)でしかない、
に帰結するのではないか、という私にとってはショッキングな話を書きました。
      ↑
この問題に深入りする前に、少し前に戻って、これまで、
「自然と人間の関係」と「人間と人間の関係」の関係
について、私がどのように考えてきたか、ざっと振り返ります。

1、最初の出会い
それは2010年の柄谷行人「世界史の構造」で、このことを知ったときです(以下が、そのさわり)。
科学技術(テクノロジー)の問題を、すべて自然科学の中で、つまり自然と人間の関係の中で解決できる、それさえうまくできれば、それで全部、結果オーライだと考える傾向があります(もちろん、それで解決できる問題もあります)。しかしそれは、科学技術の問題を、もっぱら自然と人間の関係でしか見ない発想であって、そこには人間と人間の関係の問題が抜けている。現実に、科学技術(テクノロジー)を左右し、それを押し進めたり止めたりする力が必ず作用していて、それが人間と人間の関係の力です。たとえば国家の力とか、経済の力とか。市民の力とか。そういう人間と人間の関係の中での力が、最終的に科学技術(テクノロジー)の方向が決まるので、そこを無視しては環境問題やテクノロジーの問題、安全の問題は解決できない。
だから、科学技術の災害についても、人間対自然という関係だけではなくて、人間対人間の関係を絶えず念頭に置かなければならないし、むしろ人間対人間の関係のほうが、根本である。
(柄谷行人「世界史の構造 」31~32頁。305~306頁参照)
http://farawayfromradiation.blogspot.com/2014/05/blog-post_5.html

「科学技術の問題を、もっぱら自然と人間の関係でしか見ない発想には人間と人間の関係の問題が抜けている。」という彼の指摘、もっともだと思いました。実際に、市民寄りの科学者などの議論はそういう傾向がありました。それに対し、柄谷行人が「人間と人間の関係」に正当な光を当てたのには全面的に賛成で、そこから私は、科学技術の失敗の問題も同様である、つまり原発事故は二度発生する、一度目は「人間と自然との関係」の中で、二度目は「人間と人間との関係」の中で、という認識を確信しました。

そして、2つの関係についても、柄谷行人が、
科学技術の災害についても、人間対自然という関係だけではなくて、人間対人間の関係を絶えず念頭に置かなければならないし、むしろ人間対人間の関係のほうが、根本である。
と指摘していたのにも合点して、原発事故を、
一度目は惨劇として、
二度目は犯罪として発生する
と書き、後者の人間どもが行う犯罪の告発の必要性を強調してきました。
        ↑
この点は今も間違っていない、と考えていますが、
他方で、犯罪としての原発事故を強調するがあまり、惨劇としての原発事故の本質に目を向けることがおろそかになっていたのではないかと、この夏の養老孟司の「脳化社会」論で、自然の本性=真っ暗闇の世界に対する再認識をさせられる中で、そのことに気がつきました。
つまり、私自身、
放射能の持つ、ほかの自然に比べても群を抜いて、奇妙奇天烈、魑魅魍魎とした真っ暗闇の世界であることに、もっとリアルな認識を持つべきだ、そこが抜けると、いくら「犯罪としての原発事故」を強調しても、その強調の理由が納得してもらえない、つまりこの2つは
「原発事故の一度目の人間対自然の関係が過酷を極めるとき、それに対応して二度目の人間対人間の関係も過酷を極める」
という関係にあり、出発点は人間対自然の関係だからです。
        ↑
さらに、この2つの関係の認識つまり「出発点は人間対自然の関係だ」は環境問題への接近の仕方としてものすごく重要なものでして、この点、柄谷行人の「環境問題を論じる人たちは、人間対人間の関係の問題が抜けていて、そのため、環境問題の本質的な解決が出来ない」と批判はそれ自体、正しい。
にもかかわらず、そこから「環境問題の本質的な解決」をするために何をすべきか、という課題があるはずだから、その課題に立ち向かうべきなのに、彼はポジティブな吟味検討をしないまま通り過ぎてしまった。その意味で、彼もまた「環境問題の本質的な解決が出来ない」という点で同列です。マルクスに対しやったような情熱的、ポジティブな批判を環境問題に対してやらなかったのが彼の限界です。そして、そのためには、出発点である人間対自然の関係から取り組む必要があります。それが奇妙奇天烈、魑魅魍魎とした真っ暗闇の世界である「放射能」の世界に対する接近です。
それなくして、いくら二度目の犯罪としての原発事故を強調しても、どこか空虚、足が地に着いていない、いわば「脳化社会」のコトバだけの議論になってしまう。
尤も、この点は何よりもまず、自分自身に向けられた猛省です。
         ↑
ただし、この点で自己弁解を許してもらうと、「放射能に対する科学的認識」と称する議論に対して、前からずっと違和感を抱いていたのですが、この夏の養老孟司の「脳化社会」論に出会って以来、「科学的認識」と称するものって、要するに、世界を人間が了解可能な形で再構成しただけの「脳化社会」の世界にすぎないんでしょう。放射能も同様。数値と統計的解析で放射能の正体がつかめると思っている。その実態は内部被ばくを測定する単位すらいまだ見つけられないざまなのに。
つまり、人類がこれまで取り組んできた「脳化社会」の道具立てを使って、放射能に立ち向かったとき、そこで足をすくわれ、立ち往生することが続出しているのはなにも原発を管理運営する電力会社だけではなく、放射能科学を研究している研究者たちも同様ではないかということです。そのような立ち往生している研究者たちが書いた教科書を読み、放射能に対する科学的認識を身に付けようとしても、コケルのが当然ではないか。科学者たちは自分たちの「脳化社会」の道具立てが放射能には通用せず、放射能からいわば逆襲を受けているのだから。
        ↑
こうした認識が私の中にあるので、放射能の被ばくによる健康影響の問題も、現時点の科学技術のレベルが解明にはほど遠いのが現状であるとしても、その解明はおそらく永遠にないんじゃないか、と。もしあるんだったら、原爆投下から80年近く経過しているんだからいろんな進展があってしかるべきなのに、その解明の進展が殆ど見られないから。この科学的停滞ぶりはちょっと異常すぎ、おかしすぎる。

その5は以上。
別便で続きを。

【第6話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(4)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
今送ったメールの続きです。
さきほど、養老孟司の
自然とはもともと「真っ暗闇」の世界のことだ、
という認識に衝撃を受けた、と書きましたが、その意味はまだありまして、それが「正義」批判です。
「脳化社会」の病理に批判的で、自然のあり方に忠実な養老孟司の目には、
正義は、動物や植物など人間以外の生き物にはない、人間に固有の意識(観念)です。
この意味で、正義もまた「脳化社会」の産物である、というのが養老孟司の結論であり、
従って、正義なんてものはあてにならない、適当なもの、いい加減なものだということになります。
それに従えば、人権もまた人間以外の生き物にはない、人間に固有の意識(観念)です。だから、人権もあてにならない、と。
       ↑
それでは、ブックレットに書き込んだ、
(1)、市民運動を政治・政策ではなく人権から捉え直す。
これだって、あてにならない、いい加減なものではないか、ということになります。
         ↑
それまで、私は政治・政策の観点を批判し、そこから人権にシフトすることで市民運動の壁を乗り越えることが可能になると思っていたのですが、この夏の養老孟司との出会いで、市民運動を「政治・政策」の観点で取り組もうが、「人権」の観点で取り組もうが、どちらも「脳化社会」の中のコップの中の嵐でしかない、ちっちゃな差異にすぎない、ということになった。
この帰結もまた、ショックといえばショックでした。
その結果、「市民運動の再生」という課題も一から再検討しなければとなり、で、一体、「脳化社会」から抜け出して、「自然」に回帰するような視点で市民運動を取り組むやり方がどこに見つかるのだろうか?と、途方に暮れてしまいました(現在進行形)。
       ↑
この点、柄谷行人のコトバを使えば、
これまで人類の普遍的な観念とされてきた「人権」を、もう一度、「自然」の世界の中に置いて、高次元で回復したもの、
と分かったような分からない言い方になるかと思います。
       ↑
しかし、今思いついたのですが、ここは次のように考えられるのではないか。
「人権」が勝手気ままな我執にならないためには、「自然」を基礎に置いて、「自然」から素直に導かれるものであること、
その筆頭が「生命」「身体」「健康」に関する権利ではないか。
なぜなら、
自然界において、全ての生き物は自分の命、身体、健康がいわれのない事情で傷つけられ、損なわれるのは生命保存の本能からして受け入れ難いこと。
この自然界の存在として全ての生き物に共通のあり方、これを基づいて人間界の存在のあり方についても、「生命」「身体」「健康」に対して、これを謂われなく損なわれることは許されないということを人権として承認することは、「自然」から素直に導かれるものではないか。
        ↑
ここの議論は、あなたがメールで取り上げた「自然と人間の関係」と「人間と人間の関係」の関係という問題に繋がってきますね。

その4は以上。
続いて、別便でその5を。


【第5話】補足:「自然と人間」「人間と人間」の関係について(3)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
これは、養老孟司が自然とは真っ暗闇のことだと喝破したことに触発されて、
過去の様々な人間のことが、ここで鮮やかに蘇ったのです。
のカント、ゲーテに続いての、補足です。

柄谷行人の最初のデビュー作が「意識と自然」、夏目漱石論です。
この表題からして養老孟司的です。「意識(が作り出した脳化社会)と自然」と読み替えられるからです。

数年前に、これについて、柄谷行人はこう言ってます。

--「意識と自然」での柄谷さんは、漱石の『行人』にある「頭の恐ろしさ」と「心臓の恐ろしさ」という言い回しに注目しています。

/柄谷/ 僕が言っているのは、「頭の恐ろしさ」というのは頭で考えるような倫理的な問題で、「心臓の恐ろしさ」というのは、身体的な存在そのものに関わる存在論的な問題だということですね。言い換えれば、漱石の小説は、外側から見た〈私〉と内側から見た〈私〉の二重構造になっている。そして、倫理的な問題を存在論的に、存在論的な問題を倫理的に解こうとして混乱しているのです。〈私〉というものは、外側から見た〈私〉と内側から見た〈私〉の両方を含んでいて、その二つは完全に一致することはない。そのズレにこそ、人間の存在の不思議を解く鍵があるし、漱石はそこに注目したと僕は思った。

     ↑

ここでいう「頭の恐ろしさ」というのは人間対人間の関係(=脳化社会)の問題、「心臓の恐ろしさ」というのは、身体的な存在そのものに関わる自然対人間の関係(=自然)の問題です。自然対人間の関係の問題は身体に関わる問題だから、身体の声に耳を傾けなければ解けないことなのに、人はそれを間違って、人間対人間の問題として解こうとする。その間違いは個々人の間違いではなくて、この「脳化社会」そのものが抱えている間違いなんだ、と。
https://book.asahi.com/jinbun/article/15010455
     ↑

この意味で、初期柄谷行人は、養老孟司ととても近い位置にいたんだと思い直しました。
しかし、その後、彼は、この問題から離れていき、「脳化社会」そのものの中で自爆するような徹底して論理的、数学的な突き詰めをやりました。その結果、頭がおかしくなって、そこから転回するのです。でも、その転回の時点で、彼の中では「意識と自然」という問題意識は殆どなく、自然が抜け落ちていったように思えました。
     ↑
しかし、にもかかわらず、ふとした拍子に、彼から「自然」についての洞察が示されるのです。その1つがマルクスです。2010年の「世界史の構造」の中で、マルクスが「若い時期から一貫して、人間を根本的に自然との関係の中において見る視点を持っていた」(27頁)と指摘し、そこからのちのマルクス主義者では抜け落ちた、マルクスに特有の世界認識が導かれたことを示します。

このあたりのちゃらんぽらんが、柄谷行人の可能性のひとつです。

まとまりがありませんが、補足でした。 




2024年10月3日木曜日

【第4話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(3)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
今送ったメールの続きです。

実は、この夏、養老孟司の「脳化社会」論を読んだ時に衝撃を受けたのは「脳化社会」よりも、これと対立する「自然」そのものの見方でした。
それは、よく言われる「自然と文明」「自然と人工」といったようなありふれた対立のことではなくて、
自然とはもともと「真っ暗闇」の世界のことだ、という養老孟司の認識でした。
       ↑
そうだ、自然とは目的もなければ、意味も無意味もない、「真っ暗闇」の世界のことなんだ、この事実に対する感受性が、いつのまにすっかり忘れ去られていたことに、そして、そのことの意味の重大性(自然が不可知なものに満ちているという)に、今さらながら、衝撃を受けたのです。

この感受性がいかに鈍磨していたかを示す一例として養老孟司があげていたのが、
この入れ物に水が入っているとして、科学はこれを水素原子と酸素原子の結合で出来ていると説明する。しかし、本当にそうなのか。この水がすべて均一の「水素原子と酸素原子の結合」だという証明はどこでどうやってやったのか。水素原子や酸素原子がどれでも均一だというのは、あくまでもこれまでの科学的知識のもとでそう考えられるとしただけで、まったく同質だということはどこにも検証していない。また、2つの原子の結合方法もどれも同じだというのも、その検証はなされておらず、とりあえずそう考えて不都合がなかろうと人間が仮定しているにすぎない。

これが放射能になると、もっとその「真っ暗闇」の性格が露骨、如実に現れます。それについては先日の浦和の集会のプレゼン資料125頁以下の「認識の壁」に書きました。
放射能の実相が魑魅魍魎とした「真っ暗闇」の世界だとしたら、被ばく線量や統計データをいじくるだけで、安全、安心なんかの結論を引き出すなんてとってもできたもんじゃない、と直感的に分かるはずですが、しかし、原子力ムラのみならず、マスコミ、多くの人たちは、被ばく線量や統計データを頼りに安全性を評価していいんだと考えています。それを支える最大の論拠は何か。「脳化社会」の論理です。世界は人間が合理的に考えて作り出した世界でもって構成されていて、それに従っていれば、まず安全、安心なんだと。魑魅魍魎とした「真っ暗闇」の世界なんて無視して構わない、と。そういう「脳化社会」の論理にすっかりマインドコントロール(洗脳)されています。それと闘う必要があるのですが、そのためには、単に「原子力ムラ」の陰謀とだけ闘っても不十分です。私たちを、自然に対する全うな認識から遠ざけている「脳化社会」の論理そのものと対決する必要がある。この夏に、そう実感しました。
        ↑
同時にそれは、これまで、被ばく線量や統計データといった科学的知見を頼りに放射能の危険性を考えていって基本的にいいんだ、問題はこれを正しく考えるか否かの点にあると。それしか考えてなくて、それ以上、上に述べた放射能の実相が魑魅魍魎とした「真っ暗闇」の世界であることへの感受性も認識もなくしていました。

と同時に、ここ20年くらい読んできたカントのコトバの中で、ピンと来なかった「物自体」という言葉に、これがカントの言わんとしたことではないかと初めて合点がいく気がしました。
また、ゲーテがずっと西洋の近代科学に異論を唱えて、彼の人生の半分を費やして、彼なりの自然科学を探求してきた、その不思議さが初めて分かったような気がしました。
・・・そういう意味での過去の様々な人間のことが、ここで鮮やかに蘇ったのです。

そのことを思い起こしてくれた養老孟司にはまずは感謝のコトバもありません(その後、いろいろと注文が出ましたが)。
      
その3は以上。
続いて、別便でその4を。


 

【第3話】「自然と人間」「人間と人間」の関係について(2)(24.10.4)

Xさん

柳原です。
今のメールの続きです。
この夏、養老孟司の「脳化社会」論を読み、正直、頭をかなづちでぶん殴られたような衝撃を受けました。
その衝撃をなかなか正確には言い表せないのですが、一言で言ってみると、それは、
お前は、これまで資本主義社会(養老孟司のいう「脳化社会」)をその外側に立って批判、変革しようと思っていたかもしれないが、お前のスタンスはまさしく「脳化社会」そのものではないか。「脳化社会」べったりの人間が一体どうやって「脳化社会」を認識、変革できるのか、と。
例えば、このブックレットで強調している、
市民運動を政治・政策ではなく人権から捉え直す。
       ↑
この私にとっては画期的だと思えた新たな視点にしても、所詮、「脳化社会」というコップの中で論争しているだけ(コップの中の嵐でしかない)のことではないのか。
というようなことでした。

> お前のスタンスはまさしく「脳化社会」そのものではないか
          ↑
それが数学です。私は小学生の時からずっと、数学を自分自身の最大の道具として後生大事にしてきたのに対し、養老孟司から
「数学こそ人を強制的に合意させる『強制了解』だ」
と一刀両断に言われた時、
「まさしくその通り。だから、貧乏人だった私が他人に自分を認めさせる武器として数学を最大の武器として考えてきた」んだと合点しましたが、しかし、養老孟司の言わんとすることはその先にあって、それが
「だから、数学とは、自然という現実に対して、それを無視しても成り立つ人間の脳の中で組み立てられた、脳化社会の典型だ」
でした。
  ↑
この指摘には一言の反論の余地もありませんでした。数学というのは、物理・化学などの実証科学とちがい、現実との間で対応が取れているかといった実証は不要で、要は論理の整合性さえ取れていればそれで証明が完成する世界です。そして、その「論理の整合性」というのは、結局のところ、人間の脳の中で組み立てられた構造物の話です。まさに「脳化社会」の産物です。
      ↑
養老孟司が指摘する「脳化社会」の行き着く先に現れた深刻な病理現象、その病理現象を生んだ出発点に、お前が愛してやまなかった数学(もしくは数学的精神)が存在するという指摘に、正直、頭から冷水をぶっ掛けられたような衝撃を受けました。
そして、これまで無邪気に数学を自分の最大の武器だと考えてきた自分の脳化ぶりを、ここで総見直しをして、「脳化社会」の外に立つという変革をしない限り、自分は「脳化社会」というコップの中でもがいているだけで、永遠にダメなんじゃないかと思ったのです。
      ↓
とはいえ、「脳化社会」の外に立つというのは「言うは易き、行い難し」です。現に、じゃあ、養老孟司はどうやって「脳化社会」の外に立っているのか、というと、彼によると、「塀の上に立つ」つまり、「脳化社会」と(脳化社会に影響されない)自然の世界との境界にある塀の上に立つ」ということを言うくらいで、それ以上、積極的なことは何一つ言っていないように思いました。
というのは、彼を紹介する文中に、必ずといっていいほど「東大名誉教授」という肩書がつきます。「脳化社会」の最たるものをぶらさげて登場している訳で、その不徹底さぶりから、既に「塀の中(脳化社会)に落っこちてる」じゃないかと思います。
また、彼自身、「脳化社会」の行き着く先について、あれこれ論じていますが、原発事故が人々にもたらした甚大な影響については、抽象論以上のことは言いません。「脳化社会」の正体が最も割れる貴重な大事件なのに、そこに切り込んでいかない。
その腰が引けている態度、消極的な態度から、彼の総論としての「脳化社会」は注目に値するけれど、具体論、各論としての「脳化社会」は、少なくとも原発事故については失格と思うようになりました。
      ↓
そこから、
だったら、自分で、彼の総論を使って、311後の日本社会の「脳化社会」を診断するだけだ、と思うようになりました。
そこから、再び、311まで私にとって最も重要な問題意識だった「交換様式」論に立ち返って、柄谷行人の交換様式論と養老孟司の脳化社会論をつなげて、そこから311後の日本社会がどう見えてくるのか、吟味してみようと考えるようになりました。
それが9月中旬からの2週間ほどの変化です。

その2は以上。
続いて、別便でその3を。

 

 

【第96話】5.10(土)第21回新宿デモのお知らせ(25.3.18)

恒例の脱被ばく実現ネット主催の新宿デモが、5月10日(土)行なわれる。 今回のテーマは2つ、福島原発事故が発生したあと、 放射能による健康被害をなかったことにさせない、 他方で放射能回避のために避難を選択した避難者の住宅問題をなかったことにさせない。 それに正面から取り組んだ 3...