2025年1月31日金曜日

【第73話】「僕の森は戦場だった」:福島の木こりだった避難者が住まいの権利裁判で意見陳述(25.1.31)

今週1月27日に、東京地裁で、避難者が福島県を訴えた「住まいの権利裁判」(>2022年の提訴時の報告)の第12回目の弁論があり、その公開法廷で、郡山で木こりをしていた原告が意見陳述をした(全文>こちら)。裁判前のスピーチと裁判後の報告集会の動画(UPLAN提供)と裁判の提出資料は末尾。


6年前、東京の東雲国家公務員宿舎のそばで、この原告の人と初めて会ったときのことはよく覚えている。彼は私の「311まで何をしていたのですか?」の問いに、
「木こりです」
と答えた。百年前の宮沢賢治の童話(グスコーブドリの伝記やなめとこ山の熊)の世界からやってきたような彼の風貌と彼の職業がぴったり一致した。

しかし、これは現代の話だった。森の中で生計を立ててきた彼の人生は311で破壊される。放射能に汚染された森の中で生きていくことは不可能だったから。とりあえず落ち着いた避難先はそれまでの森の生活とは縁もゆかりもない都会の真っ只中。生活が一変し、心身ともに狂い出すのは必然。人に言えないその苦しみの中で、この裁判の原告になることは彼にとって生きる誇りを支える大切なものに思えた。
避難後ずっと体調がよくない中を、今回、初めて公開の法廷の場で意見陳述をするという機会を前に、原稿を作成し、27日の期日に裁判官の前で読み上げるために自分なりに万全の準備を心がけてきたことが、当日の、彼の全身から闘志みなぎる雰囲気から伝わってきた。

原発事故さえなければ、郡山で、ずっと自然豊かな山の暮らしを続けていた、こんな都会のど真ん中の裁判所の法廷で喋るなんてことはあり得なかった、「なんで、オレはここにいなければいけないんだ!」という理不尽さ、悔しさが陳述の随所に、全身からにじみ出るのが伝わってきた。

2年前、チリの詩人パブロ・ネルーダの
チリの森を知らないものは、この惑星がわからない
という言葉はこの人にピッタリ当てはまるのではないかと思い、
福島の森を知らないものは、この惑星がわからない

それで、ネルーダの詩を読んでいると、次の詩集があることを知った。
木こりよ めざめよ

それで、この一節をコピーして、あなたのことをうたった詩ですとこの人に渡した。 

私は、昨夏以降、「脳化社会」に安住して生きる生き方に心底嫌気が差し、脱「脳化社会」をめざす生き方にシフトしてきた。
それは現代社会の不登校児・異端児みたいなものだ。
しかし、その結果、他方で、宮沢賢治の世界にいるような「木こり」がまるで自分の本当に大切な親友に思えるようになった。

いま、私はこの原告が「木こり」であったことが誇らしい、
311の思いもよらない福島原発事故で都会の真っ只中にほおり込まれて、大変な苦しみの中にいながら、自身の矜持を失わずに、この日、法廷で自身の思いを堂々と陳述したことが本当に素晴らしいと思う。

この日の彼の証言は脳化社会に抵抗する日本の市民にとって、永久に胸に刻む価値のある、かけがいのない宝物だ。

       裁判前のスピーチ(東京地裁前)

       裁判後の報告集会(参議院議員会館)


提出書面
原告(避難者)準備書面(19)--真の争点形成に向けて一歩前に出る--
 被告県の争点整理案に対する応答が種々の点でおざなり、表面的なので、より充実した内容になるように再度の応答を求めて再質問したもの (全文>こちら)。

 
被告福島県 第11準備書面 

 前回期日に裁判所より被告に、原告準備書面(14)に対する認否とくに争う所を明らかにするように指示したのに対し、応答したもの。
 しかし、その内容は文字通り、内容のないもの(全文>こちら)。

2025年1月30日木曜日

【第72話】2025年の気づき4:永久保存版のコトバ「それでも、伝えたい福島の親の声:まえがき」 (25.1.31)

 10年間かかった子ども脱被ばく裁判が昨年暮れの最高裁の棄却決定で幕を閉じた。いま、その振り返りをしていて、この裁判の出発点となった「ふくしま集団疎開裁判の2013年4月24日の仙台高裁決定」の前夜のアクション、疎開裁判のブログを振り返っていて、次の投稿に出くわした。

それでも、伝えたい福島の親の声:まえがきーー福島の人々はなぜ黙っているのかーー

福島の人々は好き好んで黙っている訳ではない。言葉に出来ないほどの苦しみ、つらさの中にいる。その苦しみ、つらさを乗り越えて語り出すのは並大抵の壁を乗り越えない限り不可能。

そして、それは福島に限らない。広島、長崎、沖縄で、筆舌を尽くしがたい体験をさせられた人々はいずれも、同様の思いを抱いている。

本屋に行って書棚に原爆関係の本が並べられていると、目をそむけて通り過ぎた。新聞記事に原爆という文字が躍っていると、その記事は一切読まなかった。私は原爆という言葉と文字が本当に嫌いになった。」(「はだしのゲン」の作者中沢啓治の自伝)
私は原子病のくるしさをきいているだけに、おそろしくて、どうかして、それをわすれたいと思っています。」(「原爆の子」より)
真謝(まじゃ)農民は、沖縄全体もそうでありますが、戦争のことを語ろうとしません。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみでありました。」(阿波根昌鴻「米軍と農民」)

その上で、中沢啓治さんは、母の死で、焼き場で骨ひとつ残らなかったなきがらを見て「原爆はお袋の骨の髄まで奪った」 ことを知り、それから語り始めるようになり、「はだしのゲン」を描き始めた。

阿波根昌鴻さんも、こう書いて、米軍の人権侵害に抵抗する運動を続けた(詳細は>こちら)。

伊江島の人は誰も戦争のことを語りたがりません。戦後の土地とり上げでアメリカ軍が襲いかかった当時のことも、語りたがらない。思い出すだけで気絶するほどの苦しみでありました。だが、その苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません-- その思いはいまもかわりません。なおいっそう強くなっております。命が粗末に扱われてはいけない、どうしても平和でなければいけない、つらくても語り伝えなければならない。

この投稿は、過去についての出来事を語っているではない、今(2025年)から未来についての出来事を語っている。未来について考えない者は、過去の悲劇をもう一度くり返す。だから、それは永久に胸に刻むべきコトバだ。これを再掲する。

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     それでも、伝えたい福島の親の声:まえがき

2013年1月13日 

まえがき

福島の人々はなぜ黙っているのか、なぜ被ばくについて喋らないのか、なぜもっと声をあげないのか--3.11以来ずっとこの問いがありました。
思うに、それは、福島の人たちが広島、長崎、沖縄の人たちと同じ経験をしてきたからです。

先ごろ亡くなった「はだしのゲン」の作者中沢啓治さんは、「自伝」で、青春時代、原爆から逃げて逃げ回った自分について、こう語っています。

毎年、夏がくると「原爆!原爆!」とマスコミ等が騒ぎたて、私の気持ちは落ち込んで暗くなった。嫌でも広島の体験がよみがえり、やりきれない気持ちにさせられた。そして、自分が被ばくしたことで、なんか悪事を働いたような錯覚を覚えた。世の中の迷惑人間のように見る東京人の目の嫌らしさには、本当に腹が立った。‥‥
広島にいたとき原爆という言葉が嫌いで逃げていたが、東京に住んでからは、ますます原爆という言葉が嫌いになって逃げ回った。酒場や会合などで同県人だと聞かされると、原爆の話題が出ないことを祈るように願った。‥‥
私はもう二度と原爆という言葉を口にすまいと 決心した。本屋に行って書棚に原爆関係の本が並べられていると、目をそむけて通り過ぎた。新聞記事に原爆という文字が躍っていると、その記事は一切読まなかった。私は原爆という言葉と文字が本当に嫌いになった。(185~186頁)
広島で原爆を体験した子供たちの作文を収録した 「原爆の子」(編者長田 新)で、兄を亡くした当時5歳の女の子は5年後にこう書いています。

私は、 戦争のことを考えたり、原子爆弾の落ちた日のことを思い出すのは、ほんとうにきらいです。ご本を読んでも、戦争のところはぬかして読んでいます。戦争のニュースで、朝鮮の戦争の場面が出てくると、ぞっとします。学校の宿題が出ましたので、いやいやながら、こわごわ思い出して書きます。‥‥
今から半年前に、十になる女の子が急に原子病にかかって、あたまのかみの毛がすっかりぬけて、ぼうずあたまになってしまい、日赤の先生がひっ死になって手当をしましたが、血をはいて二十日ほどで、とうとう死んでしまいました。戦争がすんだからもう六年目だというのに、まだこうして、あの日のことを思わせるような死にかたをするのかと思うと、私はぞっとします。死んだ人が、わたしたちと別の人とは思われません。私の家に、そんなことがおきたらどうしよう。私は原子病のくるしさをきいているだけに、おそろしくて、どうかして、それをわすれたいと思っています。‥‥
広島に八月六日にいた人は、だれでも戦争がきらいだと思います。附ぞく小学校も、まだ戦争でいたんだところが、そのままで、なおっていません。私の家がびんぼうになったのも、たくさんの借家がたおれたり、やけたりしたからです。
この八月六日は、お兄ちゃんの七周きです。その日が近づくとみんなが思い出すので、私はくるしく思います。(88~95頁)
沖縄戦を体験し、戦後、米軍に農地を強制的に取り上げられたの伊江島(いえしま)の西北端の真謝(まじゃ)の阿波根昌鴻(あわごんしょうこう)さんは、1973年の「米軍と農民」で、沈黙する沖縄の人たちについて、こう書いています。

 真謝(まじゃ)農民は、沖縄全体もそうでありますが、戦争のことを語ろうとしません。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみでありました。それと同様に、戦後の土地取り上げで米軍が襲いかかってきた当時のことも、話したがりません。みな、だまっています。 真謝(まじゃ)農民はたたかいました。だがそれ以上に、苦しみと犠牲は大きかったのでした。
だがその苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません。(18頁)
 それから20年後に書いた「命こそ宝」でも、阿波根さんはなぜこの本を書いたのか、こう述べています。
かつてわしは、『米軍と農民』のはじめにこう書きました--伊江島の人は誰も戦争のことを語りたがりません。戦後の土地とり上げでアメリカ軍が襲いかかった当時のことも、語りたがらない。思い出すだけで気絶するほどの苦しみでありました。だが、その苦痛をふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません--
その思いはいまもかわりません。なおいっそう強くなっております。命が粗末に扱われてはいけない、どうしても平和でなければいけない、つらくても語り伝えなければならない。(14頁)
 福島の人たちも変わらない。原発事故のことを語ろうとしません。思い出すだけでも気が狂うほどの苦しみでした。それと同様に、事故後の「事故と被害を小さく見せる」ために襲いかかってきた数々の政策のことも話したがりません。みな、だまっています。 福島の人々は抵抗しました(福島県の健康管理調査に対して、23%しか回答しませんでした。国連人権理事会から日本に派遣された特別報告者も「大変低い数値」と指摘するほどです)。だがそれ以上に、苦しみと犠牲は大きかったのです。
だがその苦痛をふくめて、やはり福島の人たちは話さなければなりません。でなければ、福島でまた再び、広島、長崎、沖縄、伊江島、チェルノブイリの悲劇をくり返すことになるからです。

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2025年1月29日水曜日

【第71話】2025年の気づき3:このスピーチは過去の出来事を訴えているのではなく、未来の出来事について訴えている(25.1.29)

はっきり言って、福島原発事故のことは誰もが忘れたがっている。
それを責めることはできない。
だから、311からこの間語られてきた福島原発事故のことを封印するのは理解できる。
しかし
12年前の、2013年5月18日、ふくしま集団疎開裁判の第2回新宿デモ。
そのデモに北海道から参加した「チェルノブイリへのかけはし」の野呂美香さん。
彼女のデモ前スピーチを今、聞き直して、彼女は、2年前の過去の出来事を訴えているのではなく、私たちがこれから経験する未来の出来事について訴えているのだと気がついた()。
そう気がついたら、これは忘れるわけにはいかない。
封印したからといって、その出来事が起きなくなるわけではない。
どんなにいまわしいかもしれないが、日本中の市民が一度は耳を傾けて聴く価値があるスピーチだ。
そして、そのいまわしさをもたらす根本の原因と向き合う覚悟を持つ必要がある。
それを私は、「脳化社会」との対決に見出している。
それはもはや原発事故の被災者の問題ではなく、私たちひとりひとりが当事者として日々直面する問題である。


)それは、ベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチさんと「モモ」の作家ミヒャエル・エンデの以下のコトバに触発されたもの。
人々はチェルノブイリのことは誰もが忘れたがっています。最初は、チェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだと分かると、今度は口を閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることは難しい。チェルノブイリは、私たちを、それまでの時代から別の時代へ連れていってしまったのです。その結果、私たちの目の前にあるのは、誰にとっても新しい現実です。‥‥
--ベラルーシの歴史は苦悩の歴史です。苦悩は私たちの避難場所です。信仰です。私たちは苦悩の催眠術にかかっている。‥‥
--何度もこんな気がしました。これは未来のことを書き記している‥‥》(「チェルノブイリの祈り」見落とされた歴史について--自分自身へのインタビュー 岩波現代文庫版32~33頁

この物語(注:モモ)を私は人から聞いたのを、そのまま記憶どおりに書いたものだからです。‥‥ある夜、私は汽車でひとりの奇妙な乗客と同じ車室に乗り合わせました。‥‥その夜の長い汽車旅の間に、私にこの物語を話してくれたのです。
話が終わったあと、私たちはふたりともしばらく黙っていました。するとこの謎めいた旅行者は、もう一言つけ加えたのです‥‥
「わたしは今の話を、過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話してもよかったんですよ」
》(「モモ」作者の短いあとがき より) 

【第70話】2025年の気づき2:「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」を紛争(住まいの権利裁判)に応用できるのではないか(25.1.29)

             ミネルヴァの梟(ルーヴル美術館蔵)

一昨日、避難者が福島県(以下では県)を訴えた住まいの権利裁判の第12回目の期日だった(2022年3月11日の提訴の報告>こちら)。
前回10月の期日で、県は原告避難者側で作成した争点整理案(>こちら)に対して、自分たちの主張を書き込んできた。しかし、その書きっぷりは一言でお粗末。いやいや、しぶしぶ、最低限の主張しか書かなかった。こんな上っ面のペラペラの争点整理では整理の意味がない。
逃げる福島県に対し、これでは真の争点整理にならないことを理由を示して詳細に説明し、真っ当な争点整理に向けて一歩前に出るために、県の不十分な主張に対して再回答を求める以下の書面(準備書面(19))を前回期日のあとすぐ提出した(その全文は>こちら


この書面を読んだ裁判所が、県に対し、次回までに、原告のリクエストに応答するように指示を出すことをひそかに期待して待った。しかし、指示はとうとう出なかった。一昨日の期日の時にも、法廷でこの書面の趣旨を説明し、改めて、裁判所に、この指示を出すことを求めた。しかし、裁判所はついぞ指示しなかった。

裁判所のこの対応については、優柔不断であるという評価から、無理もないのではないかといった評価まで複数の評価があり得るが、私自身に一番欠けていたのが「争点整理を充実したものに仕上げることがなぜ必要なのか」について、「マニュアルにそう書いてあるから」といった紋切り型の理由しか持ち合わせておらず、そのため、自分自身のコトバで裁判所を説得できなかった。この日、その点の至らなさを痛感し、そのあと、つらつらとその理由を考えた。

その中で、ひとつの理由に思い当たった。それが、丸山真男がヘーゲルの「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」という言葉に着目して、そこから次のような見解を展開していたことである。これを思い出したとき、この読み方は歴史のみならず紛争(ここでは裁判の争点整理)にも応用できるのではないかと思ったこと。

丸山真男集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.222-223

私のなかにはヘーゲル的な考え方があります。つまり"自分は何であるか"ということを自分を対象化して認識すれば、それだけ自分の中の無意識的なものを意識的のレヴェルに昇らせられるから、あるとき突如として無意識的なものが噴出して、それによって自分が復讐されることがより少なくなる。つまり"日本はこれまで何であったか"ということをトータルな認識に昇らせることは、そうした思考様式をコントロールし、その弱点を克服する途に通ずる、という考え方です。‥‥哲学はいつもある時代が終幕に近づいたころ、遅れて登場し、その時代を把握する。"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という有名なヘーゲルの比喩がそれです。ヘーゲルの場合は非常に観照的で後ろ向きです。つまり哲学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だ、というので、ヘーゲル哲学における保守的要素の一つになるわけです。ところがマルクスはこれをひっくりかえして読んだ。ある時代をトータルに認識することに成功すれば、それ自体がその時代が終焉に近づいている徴候を示す。こういう読み方なんです。‥‥資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、それは資本制社会が末期だということの徴候なんです。そういう「読みかえ」ですね。…その流儀で"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という命題を、日本の思想史にあてはめれば、‥日本の過去の思考様式の「構造」をトータルに解明すれば、それがまさにbasso ostinatoを突破するきっかけになる、と。認識論的にはそういう動機もあります。」(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10pp.222-223浅井基文のHPより)

そうだとしたら、紛争の構造の全的な解剖に成功すれば、それはその紛争が終焉に近づいたこと、つまり紛争の真の解決の証(あかし)を示すことができることを意味する。
この「紛争の構造の全的な解剖」とは争点整理、それも形式的、外形的な整理ではなく、当該紛争の構造を全的に解剖したと言えるほどに充実した、真の争点形成を実行した整理のことである。だから、県がやったようなおざなりのスカスカの争点整理では到底「紛争の構造の全的な解剖」足りえず、そこから、その紛争の終焉(=真の解決)の証を示すことは不可能である。

つまり、もし裁判所が当該紛争の真の解決を誠実に願うのであれば、必然的に、その争点整理を実りある充実したものに仕上げる必要があり、そのために精一杯努力を積み重ねるしかない。

紛争解決の場もまた「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」場なのだーーこれを裁判所に気づいてもらうことの大切さを、今日、痛感した。

ちなみに、丸山真男のポピュラーな著作「日本の思想」でも、「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つ」について、以下の通り記述し、マルクスがあれほどまでに「資本論」に心血を注いだ動機を解明している。確かにこれならなるほどと合点できる。

一定の歴史的現実がほぼ残りなくみずからを展開し終わったときに哲学はこれを理性的に把握し、概念にまで高めるという(ヘーゲル主義の)立場を継承しながら、同時にこれを逆転させたところに(マルクス主義は)成立した。世界のトータルな自己認識の成立がまさにその世界の没落の証となるというところに、資本制生産の全行程を理論化しようとするマルクスのデモーニッシュなエネルギーの源泉があった。」(39頁)。

 

2025年1月28日火曜日

【第69話】2025年の気づき1(ふくしま集団疎開裁判の振り返り):311後の日本社会=ゴミ屋敷の再建に必要でかつ十分なアクションとは何か(25.1.29)

判決直後アクション(2013.5.18新宿デモ。司会山本太郎>スピーチ全部
 

ケーテ・コルヴィッツ「種を粉に挽いてはならない」(1941年) 
「未来をつくる子どもたちを死に追いやってはならない」   

   

十数年ぶりに、ふくしま集団疎開裁判(ブログ>こちら)を振り返って、2013年4月24日の仙台高裁の決定が出た直後の「判決直後アクション」のひとつ5.18新宿デモの動画(>こちら)を観た。そしたらものすごく新鮮だった。そのとき、かつて経験したことのない気づきに襲われた。
それは、ここでスピーチする人たちのコトバは過去の出来事について語っているのではなくて、未来の出来事に向けて語っているのだという気づき。そのコトバは今を生きる私にとって、単に過去のなつかしい思い出ではなく、未来の実現に向けて、永久に記憶されるべき宝物だという気づき。

そのような宝物をもたらしたふくしま集団疎開裁判(そして、その続きの裁判である子ども脱被ばく裁判)とは何だったのか。
それは、単なる「避難」「脱被ばく」を訴える裁判ではなく、住まいを放射能汚染された人々があきらめの中で最後の拠り所にしていた「苦悩という避難場所」(スベトラーナ・アレクシェービッチ)から抜け出し、「現実の避難場所」に向かうアクションを呼びかけることを意味した(その詳細は>新老年【第32話】)。

それは311後の日本社会の再建にとって必要なアクションだった。けれど、今思うことは、それで十分ではなかった。では、何が足りなかったのか。

思うに、それは単に「集団疎開」=脱「被ばく」を訴えるだけでは足りなかった。汚染地に住む人々が「苦悩という避難場所」から抜け出し、「現実の避難場所」に向かうアクションを呼びかけるのでもまだ足りなかった。何が足りなかったのか。

ひとたび原発事故が起きたらその修復には百年かかると言われる(菅谷昭「これから100年放射能と付き合うために)このような気が遠くなるような長期にわたる被害は人類誕生後の自然災害で経験したことがない。原発事故は人類が推し進めてきた科学技術の栄華の最先端で登場した、最先端の科学技術がもたらした最先端のカタストロフィーだった。つまり、原発事故は私たちの科学技術の栄華の成れの果ての姿であった。そのことを肝に銘じる必要がある。

私たちは、311で科学技術を極限まで推し進めた「脳化社会」の成れの果てと出会ったのだ。こんな激烈な出会いは過去になかった。だから、「脳化社会」の成れの果てを経験した私たちは新人類である。新人類であることを痛切に自覚する必要がある。それを自覚した者にとって、311後の「脳化社会」の成れの果てから立ち直るためには、「脳化社会」そのものと対決する必要があることは疑いようがない。「脳化社会」こそ原発事故をもたらした根本的な原因なのだから。

「脳化社会」そのものとの対決の必要性、重要性を認識、自覚することで、311後の日本社会の再建をめざしたふくしま集団疎開裁判にとって何が必要でかつ十分なアクションなのかが明確になる。

そのことを指摘したのがケーテ・コルヴィッツの次のコトバ。
平和主義を単なる反戦と考えてはならない。それは一つの新しい理想、人類を同胞としてみる思想なのです」 

彼女の言葉はこう言い換えることができる。

原発事故の救済問題を単なる反原発と考えてはならない。それは一つの新しい理想、人類を同胞としてみる思想なのです

311後で放射能対策はガタガタになり、そのゴミ屋敷を放置する日本社会を再建するという課題を考える中で、私はコルヴィッツの「一つの新しい理想・思想」を脱「脳化社会」という思想(それは政治でも政策でもない)に見出した。それは単なる「避難」「脱被ばく」の訴えにとどまるものでなく、私たちが新しい理想に基づいて生きる姿勢そのもののことだ。
原発事故という「脳化社会」の成れの果てのゴミ屋敷を経験した者にとって、311後に、原発事故はなかったかのようにされて、引き続き「脳化社会」というゴミ屋敷の中で息をひそめて生きていくのは殆ど狂気の沙汰、耐え難い苦痛である。だから、私は改めて、人々の苦痛に対し「苦悩という避難場所」に引きこもるのではなく、そこから抜け出して、脱「脳化社会」=脱「ゴミ屋敷」という「現実の避難場所」に向かうアクションを訴える。これこそ、311後の日本社会の再建にとって必要でかつ十分な思想でありアクションである。

私にとって、この脱「脳化社会」=脱「ゴミ屋敷」とは、市民立法によってゴミ屋敷を人権屋敷に再建する「チェルノブイリ法日本版」の実現である(詳細は>こちら)。


2025年1月22日水曜日

【第68話】パンセ:「小沢征爾の中国の弟子たちの追悼コンサート」番組の衝撃(25.1.22)

 昨年末(12月30日)放送の、NHK「小澤征爾が遺したもの〜教え子たちの追悼コンサート〜」を観た。それで、それまでの小澤征爾の見方が変わってしまった。

これまでずっと、小澤征爾にどこかいかがわしいものを感じて来た。彼が指揮する演奏を聞いても「美しい。でも、それだけだろ」としか思わなかった。そのため、彼を胡散臭いものとしてずっと遠ざけて来た。
しかし、この番組を観て、90年近い彼の全生涯をみて、中国の若い音楽家たちの小沢に対する姿勢に触れ、自分は間違っていたと思った。彼はただの正義感のヒーローとして行動してきたのではなかった、自分の身体を投げ打ってでも、打ち込んできたものがあったことに今初めて気がついた。
それは、かつて中国の友人が私に教えてくれた人間像、「義の人」の振る舞いだった(第31話)。
それはまた、戦前、本気で五族協和の実行を考えていた「義の人」だった彼の父親の教えを受け継ぐものように思えた。

彼が喋るコトバ、それは私に消化不良を引き起こし、舌足らずな、ざっくりした印象を与えた。しかし、彼の真骨頂はもともとコトバにはない。演奏にある。コトバに翻訳できない音楽の世界にある。だから、彼のコトバを鵜呑みにして、彼を評価、判断することは本来間違っている。彼を評価、判断するなら、彼が演奏してきた音楽に向かってやるべきだ。今にして初めてそのことに気が付いた。

とはいえ、彼に対して信頼、憧れを抱くに至っていない。けれども、彼が音楽を通じて示そうとしたもの、単なるコトバ、認識を超えて、体験、実行を通じて、私たちが人々と一緒に作り上げることができるものが何であり、それがどのようにして可能なのかについて、大いなる示唆を与えてくれる気がする。
その示唆を十二分に受け取ってから、初めて彼に対する自分の態度を決めればいい。

アクティビストとしての小沢征爾の可能性について考える(続く)。


2025年1月21日火曜日

【第67話】パンセ:「シークレット・ミッション」のマドンナ「雑貨屋のおばさん」が教えたまいし歌(25.1.22)

韓国映画「シークレット・ミッション」を観て、マドンナ=主人公が田舎町で住み込みをした雑貨屋のおばさん(>第66話)から、ひとつのことを知った。

大嫌いだった井上陽水、
その中で、ひとつだけ別格の、好きな歌があった。
それが「小春おばさん」(1973年「氷の世界」所収)
これがこの映画にぴったりのマドンナ讃歌の歌だと。
この当時の陽水の風貌、田舎町の雑貨屋に住み込んだアホのドングみたいだ。


2025年1月20日月曜日

【第66話】パンセ:韓国映画「シークレット・ミッション」の底知れない深謀の任務「ノンセンスに徹しろ」(25.1.20)

2022年、中国の作家閻連科(第16話)の「人民に奉仕する」を原作にした映画が韓国で作られた(「愛に奉仕せよ」)。その監督チャン・チョルスが2013年に監督した映画「シークレット・ミッション」を今日、観た。

スパイ・アクション映画だと思ってちょっとだけ観る積りが、気がついたら全部観てしまった、完全にはめられた。観客をはめたその罠は主人公のスパイに課せられた任務にあった。それはこの世で最も深謀の任務「バカのふりをすること=ノンセンス(※)に徹しろ」。

(※)「ノンセンスは存在の手ざわりをわれわれに教える」ことについては>【第57話

 
 
その深謀の結果は日常生活の中では姿を表さないが、政治の究極の論理「やつは敵だ。敵は殺せ」(埴谷雄高「幻視の中の政治」)が実行に移され、主人公たちに「自決せよ」という命令が下るという極限状況に追い詰められる中で、上司の権力者たちに
「何がお前らを 変えたのか」
と嘆かせるほど、そしてそれはスパイ本人にも全く思ってもみなかった形で正体をあらわしたーー「祖国にとって大事なものとは?」に対する主人公たちの答え「母への愛に対する強烈な憧れとそこから流れ出した「ノンセンス」の中で生きている人たちとともに生きたいという強烈な渇望」として。
 
だが、主人公たちの正体が想定外に見えるとしたら、それは現実を政治の論理というメガネでしか見ていないからだ。潜伏先で主人公が「バカのふりをすること=ノンセンス」の任務に徹した時、彼の周りにいた人たちは彼の「ノンセンス」を否定も排除もせず、それぞれ流に全身で受け止めてくれた。それは彼ら自身が「ノンセンス」の中で生きていたからだ。その過程で、主人公の中で何かが変わった。自分に課せられた、秘密におおわれていた本当のミッションが何であるかを悟ることになった。
本当のシークレット・ミッションとは母への愛であり、「ノンセンス」の中で生きている人たちへの共感の目覚めだった。このとき、彼は悟った、祖国にとって何が真に大事なものか、何が真に「人民に奉仕すること」か、何が「愛に奉仕せよ」なのかーーそれは一方で、潜伏先で住み込むことになった食料雑貨屋のおばさん、その店にやって来る地域の人たち自身の「ノンセンス」の生き方を通じて教えてくれたものであり、他方で、「やつは敵だ。敵は殺せ」の政治の論理でしか生きられないガチガチの権力者たちの過酷な生きざまを通じて、むごいまでに、反面教師的に彼に教えてくれたものだった。
 
映画のラスト、主人公とその仲間が「やつは敵だ。敵は殺せ」という論理で崖っぷちに追いつめられる中で、主人公は
戻りたい
とつぶやく。

そのとき、
別れ際に、住み込みをした雑貨屋のおばさんがくれた通帳を取り出し眺める。
彼女が彼のために毎月ひそかに積み立てた預金と名義が最初「ドングの給料」だったのがやがて「うちのドングの給料」、「うちの次男坊の給料」「息子の結婚資金」と変わって行くのを見て、彼は嗚咽し、もう一度、腹の底から叫ぶ。
戻りたい!
こんなふうに生きたい!
彼が心から「戻りたい」「こんなふうに生きたい」と願ったこの世で最も崇高な世界。
それは政治の論理ではなく、
潜伏先で彼が「バカのふりをする」中でつかんだ、
真に生きるに値すると悟った世界、
「ノンセンス」の中で人々がともに生きていける世界。
 
私にとって、この映画は、政治の論理で動かされる「脳化社会」の塀の外に出て、人々が生き物と変わらない自然世界の中で生きる生き方のビジョンをあざやかに示してくれた、ものすごい貴重な作品だと思った。それは韓国社会と韓国映画の奥深さを感じさせてくれた。

 予告編
 



2025年1月18日土曜日

【第65話】最も深く「人権」について考えたのに、決して「人権」を口にしなかった漫画家水木しげるの謎が解けた「だいたい戦争というのは無理なんじゃないですか」(25.1.18)


  2008年6月放送のNHK「知るを楽しむ 第2回」 ビンタか死か 後編
  水木しげる「だいたい戦争というのは無理なんじゃないですか」


2年前、水木しげるの謎について、次のようなコメントを書いたことがある。

「総員玉砕せよ!」
これは私が今まで読んだ漫画の中で、これ以上の人権侵害はないと思えるほどの人権侵害の極致を描いた作品でした。
しかし、それを描いた当の水木しげるは、生涯一度も「人権」も「人権侵害」というコトバを口にしませんでした。
これが私にとってずっと謎でした。
その謎が解けたと思ったのが、2年ほど前に、避難者追出し裁判の弁護をする中で、国際人権法の問題を考えることになり、国際人権法の中で、人権の出発点になるのは「自己決定」だということを知った時でした。これは水木しげるの生き方そのものを最もリアルに語るコトバだったからです。
この時、私が人権の本質について、まだ何も知らなかったことに気がついたのです。
そして、水木しげるこそ人権の本質をいち早く的確に掴んでおり、にもかかわらず、日本社会では(憲法の教科書でも)「人権の本質は自己決定だ」なんて誰も言わないから、彼もまた日本社会の中で、「オレは人権主義者だ」と言わなかった(言っても誰にも理解されないと思った?)んだと思いました。

彼の死を報じたこの記事には自己決定を貫く彼の生き様が如実に現れていると思いました。
 ・・・私は(国の)命令をあまり聞かなかった。“自分の命令”を聞いていただけだから。 

ただ、この時、水木しげるの「自己決定」の中身にまで踏み込まなかった。しかし、今、彼の「自己決定」の中身に踏む込んでみたとき、実に、本当に見事までにひとつの立場で貫かれていることに気づいた。それが、
「脳化社会」の塀の外に出て、自然世界の中で生きる
というスタンス。水木しげるは養老孟司の偉大な先達。私が求めている人権主義者の極地が彼の哲学(自然哲学)の中に詰まっている。

それが、2008年6月放送のNHK「知るを楽しむ(第1回)」の第2回で、水木しげるの次のコトバ。

「だいたい戦争というのは無理なんじゃないですか」

その無理なことを無理やりやらせるところに人権侵害が発生する。

すると、原発についても、これと同様に、次のように問うのが最も考え抜くに値する問い方ではないか。

「だいたい原発事故というのは無理なんじゃないですか」
 


【第64話】パンセ:田舎人の「存在の手ざわり」について(25.1.18)

2023年7月、福井県若狭町で、チェルノブイリ法日本版の学習会をやった(>その報告)。そこに参加した一人の女性の方の感想が、その毅然とした声の調子といい、その歯に衣を着せない内容といい、とても印象に残った。

それは次のような話だった。

今日はとってもいいお話を聞かせて いただきましてありがとうございました。今、全部こうメモさせてもらったんですけど‥‥
市民立法のこのことが、私、若狭町に住んでるんですけど、これがですね、市民に要するに行き渡り、自分がそれに参加していく。えーっと、議員を頼りにしてんじゃなくて‥‥今は割と議員だけに頼り、議員がいろんなものに参加して決めていくそう いう組織が多いですよね。ここは福井県全体に自民党ガチガチなんです。保守的で、参議院も衆議院もみんなそうなんですね。‥‥
で、そういうようなところに、そして原発にお勤めの人がほとんどで、原発にすごく頼ってるんですね。で、知事さんもそれで頼って。
私は前から事故が起こったらもうこれ、アウト。福井県だけじゃなくて 全部の世界中ですか、もうこんなに大きなところでやってしまったらもう終わりだと思うんですよね。
だからいつも勉強して‥‥一人一人がもっと自覚してそして 市民立法の立ち上げを何とかして、しなきゃいけないかなって、今はそういう風に、話を聞いて思いました。

それで、じゃあどういう風にこれをしていくかということ‥‥今お話聞いててすごく、あっそっか‥‥前にですね、私 民宿してるですが、福島の子どもたちをおととし受け入れたんですね。そのときに5人ぐらい来たんですけれども、いわきかどこかからかな、
高校生なんですけど、「風評被害にあってて大変なんです。どこに行っても、『あなたたち、福島県から来たのね』って 言って嫌がられるっていう。それを、僕たち、すっごく感じるんですよ」
じゃあ、私たちがもしここでそんなことになったら 「福井県なのね、あなたたち。嫌だわって、放射能を持ってきたらもう嫌だわ」って言われるのだと思うんですよ。

だからやっぱり、自分たちの県を守るということとか子どもたちを守るっていうことをもっともっと自覚するために、ホントに勉強会というものを市民運動でしていかなければならないなと私は思いました。
‥‥いつもはお話聞くだけで、でも今日はなんかね、ああ、来てよかったなっていう熱い思いを持ちました。

その結果、この日の学習会では喋り切れなかった続きを翌月、この方の民宿でやることになった。そこは三方五湖の前の小高い山の森を越えた内陸側の田園地帯にある農家民宿だった。
そこでまた、色々なお話を聞かせてもらった。中でも一番印象に残ったのが、この方が、若狭町の森に生息するクマタカの会に参加していて、クマタカに深い愛着を抱いていることだった。
白鳥や鶴に愛着を持つ人がいることはよく知られているけれど、クマタカは初めてだった。

昨夏、養老孟司の「脳化社会」論に震撼させられ、ファーブル昆虫記とともにシートン動物記を半世紀以上ぶりに手に取るようになり、再び、鳥の世界にかつてないほど関心が沸いてきた時、この方のクマタカの話が思い出された。2年前、この方のチェルノブイリ法日本版に対する深い共感とクマタカへの愛着は私の中でバラバラの出来事だったが、今、この2つはこの方の中で深く繋がっていることに、クマタカに対する深い愛着と原発事故の救済をめざす日本版に対する深い関心とはこの方の中では表裏一体であることに気がついた。

そう思うと、2年前の7月の学習会で、この方の毅然とした感想が、あの空を舞うクマタカの勇壮な姿と重なって見えるのは私の思いすごしだろうか。
それは、自然世界と向き合って生きている田舎人がもたらしてくれる「存在の手ざわり」という宝ものだ。

          クマタカ(日本野鳥の会埼玉の廣田純平氏撮影サイト

      長野県松本市白樺峠のクマタカ(高久健氏撮影>けんさんの探鳥記より)

【第63話】パンセ:都会の孤独の原因について(25.1.18)

都会に住んでいると、そこで襲われる孤独、その原因は人により様々だろう。

私の場合、24年前、NYで味わった得も言われぬ孤独の原因がなんだったのか、ずっと不明だった。
しかし、今度本格スタートする田舎の保養施設「奏奏(sousou)」を讃歌する文(第61話)を書いていて、同時に、ファーブル昆虫記、シートン動物記に夢中だった子ども時代を思い返していて、それが分かった。
自然世界の生き物たちが回りにいなかったからだ。 

自然世界の生き物たちがいれば、たとえ一人で、個独だとしても、孤独ではなかった。生き物たちは別段、私に友情も抱かず、無頓着、非情だったが、それでもなお、彼らの姿はえも言われない気分をもたらした。つまり、鶴見俊輔のいう「存在の手ざわり」があった。

しかし、NYのような人工的な都会には自然世界の生き物たちがいない。生き物がもたらしてくれる気分もない。「存在の手ざわり」が皆無。 

この人工世界との関係が私を孤独に突き落とす。それは私の心構えの問題でも、キャラクターの問題でもない。世界と自分との関係の問題だ。

だとしたら、都会で人がこのような孤独に襲われるのは普遍的な現象で、誰もがそこに突き落とされ、誰もがそこからの脱出をひそかに願って、いろんな手を使って、めいめいなりの脱出を試みる。 しかし、その多くがその場限りの気晴らし、うさ晴らしに思える。そのようなかりそめの脱出ではなく、「存在の手ざわり」に向かうべきだ。それが大地に足をつけて生きる、ということ。

2025年1月17日金曜日

【第62話】パンセ:バイデンの退任演説「バカの壁は、死ななきゃ乗り越えられない」(25.1.18)

 先日、バイデンが退任演説をおこなった。日経によると、彼はこう警鐘を鳴らしたそうだ。「超富裕層による少数支配の政治が形成されつつある」と。

そうだろ、この警鐘が4年前、第1期トランプを打ち負かして、彼が大統領に選ばれた勝因だったから。
ただ、それを言うのなら、同様に、リベラルな民主主義を標榜する自分(と後継者のハリス)が、今回、トランプに打ち負かされ、なぜ大統領に再任されなかったのか、その敗因にも言及すべきだろう。

それは単純明快な話。リベラルな民主主義を標榜するバイデンは「超富裕層による少数支配の政治」に敗れた訳ではなく、たんに「脳化社会の深化によるAI支配の政治」の浸潤に全くといいほど歯止めが掛けられなかったからだ。人々は「脳化社会の深化によるAI支配の政治」の浸潤に内心、不安と不満とフラストレーションをふくらませている。これにバイデンは、何もしなかった。単に無力だった。
人々は彼にうんざりし、「もうこいつに任せても、ダメだ」と見切りをつけるのは当然に思える。たとえ若い、女性のハリスに交代したとしても。

そのことに気がつかないとしたら、それはバイデンとハリスらのバカの壁だ。脳化社会の申し子である彼らに、この壁を乗り越えることは至難の業に思える。 

この話は別に米国に限ったことではない。日本でもお隣り韓国でも、世界中、至る所で見られる光景だ。

今、世界中が、「 超富裕層による少数支配の政治」や「独裁政権」が進行しているのでも、民主主義が後退しているのでもなく、単に「脳化社会の深化によるAI支配の政治」の浸潤に無力な政治家たちに対し、人々の間で、とめようのない不安と不満とフラストレーションがふくらんでいる。脳化社会の塀の中で、いくら民主主義改革に挑戦しても、所詮、脳化社会のコップの中の改革にとどまり、無力だから。

世界同時革命という言葉が今も生きているのなら、今それは「脳化社会の深化によるAI支配の政治」に対する抵抗としてのみ意味を持つ。

【第61話】なつかしい庭「奏奏(sousou)」讃歌と共力の呼びかけ(25.1.17)

第59話】の続き。 脳化社会のどん詰まりの問題について、この間、考えてきたこととつなげて具体的に書いたもの。
書いていて、こんな音が響いてきた(>グールド リヒテル

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           四賀の保養施設「奏奏(sousou)」の旧HPは>こちら

なつかしい庭「奏奏(sousou)」讃歌と共力の呼びかけ
--災害日本で22世紀に残す恒久プロジェクト--

1、讃歌:寝っころがる

そこは、特に知られた名前もメッセージもないところ。
けれど、そこには
寝っころがって、ボンヤリ眺められる陽や月や星の光、山や空や雲がある。

寝っころがって、耳を澄ますと聞こえてくる風や水の音、虫や鳥の声がある。

寝っころがって、鼻を開くと匂ってくる草や花や木々のにおいがある。

寝っころがるだけで、普段とちがう、普段眠っていたもうひとりの自分の姿が見えてくる。

寝っころがるだけで、普段気がつかなかった、ワクワクする鼓動が胸の底から聞こえてくる。

寝っころがるだけで、今まで忘れていた、自分の中の幼い頃の五感がよみがえってくる。

そこは、雑草みたいなところ。
名前もメッセージもない代りに、命がどきどき輝いている強い場所。
そんな場所に身を置いてみたらどんなにいいことだろうと
そんな場所を提供しようと始まったのが保養施設「奏奏(sousou)」。

まつもと子ども留学の寮をリニューアルして、今年1月、新ホームページと新法人としてスタートする「奏奏(sousou)」。
「奏奏(sousou)」は、心身の健康を取り戻したいと願う人たちがふらりと訪れて寝っころがれる「なつかしい庭」。

 

2、共力:一灯をともす
人々がいいと感じたものは、なくならない。
古代のちっちゃな町で始まった秘密投票。それは今も全世界で続いている。
でも、どんないいことも誰かがカタチにして始めなければ、始まらなかったし、続かなかった。
人々が被ばくの影響が気になり、心身の不調を感じるとき、心身のスイッチをリセットするために訪れる場所があったらいいな。
このいいなの願いをカタチにしようと始まったのが保養施設「奏奏(sousou)」

ここなら心おきなく寝っころがって、景色をボンヤリ眺め、耳を澄ませ、鼻を開いて五感をリセットできる。
それは、原発事故は百年続くと言われる過酷事故、その未曾有の経験から生まれた「生きる権利」を、ささやかだけれどカタチにしたもの。

そればかりか、原発事故は今日の最先端の科学技術が行き着いた終着点。それは先端科学技術の中に暮らす私たちの生き方を根底から揺さぶる――先端科学技術の終着点から次はどこに向かい、どこに着地するのか?
私たちはその問題から逃れられない。
実は誰もまだ答えを出せていないその問題は、私たちのこれからの百年を決定する。

その問題を考えるためにも、今、目の前の「生きる権利」をカタチにした「奏奏(sousou)」が存在し、そこで人々が五感をリセットできることがとても大事に思える。
その問題は五感をリセットした新しい人間の手に寄らない限り、解けないと思うから。

この「奏奏(sousou)」が今年1月、新ホームページと新法人として本格スタートする。
「奏奏(sousou)」は災害日本で22世紀に残す恒久プロジェクト。

これは、その恒久プロジェクトの継続に共感した方たちに、一灯をともす共力(=共に力を出す)の参加を呼びかけるものです(この呼びかけ、続く)。

2025年1月15日水曜日

【第60話】音楽の力:24年ぶりに地下鉄ホームで聴いたトランペットの曲名が分かった(25.1.15)

 24年前の2001年3月。同年9月11日の大惨事発生の半年前、仕事と追っかけで、1ヵ月半、ニューヨークでアパート住まいしていた。
週1日、コロンビア大学で柄谷行人のゼミを聴講する外はひとり暮らし。大都会の孤独を思う存分味わう日々で、2週間ほど過ぎた頃、真夜中に、アパートの前の建物が火事、煙がアパートの廊下にまで立ち込めるちょっとした騒ぎ。火事の時の英語は殆ど絶叫。完全にギブアップ。動物のように自主避難するしかなかった。



翌日、セントラルパークに向かう途中で、飼っている犬(>こいつ)と似ている犬を見つけては追っかけたり、

 セントラルパークで、行き交う犬の散歩ずれやリス、鳥を眺めて一日を過ごす。ここだけは大都会の中のオアシス(とはいっても、人工的な自然だったが)みたいに感じられ、心惹かれた。だが、そんな自然への郷愁を確認するためにわざわざ日本(日本は自然世界がここよりずっと残っている)から来たのかと思うと、情けない気もした。ただ、当時はそのことを自覚する力もなかった。


   

 

日が落ちて闇が満ちてきて、都会の孤独も一緒に立ち込める時間帯。

地下鉄でアパートに戻ろうとホームに出る。すると、不意に、なにかの音が鳴り響いた。その瞬間、その音に惹き付けられ、知らないうちにその音に向かって駆け出していた。



それはトランペットを吹くストリートミュージシャン。初めて聴いた曲なのに、なぜかとても懐かしくその演奏に胸が締めつけられ、その場から動けなかった。
そのとき、初めて、ニューヨークに来た甲斐があったと思った。

 

 


それから24年後の今日、NHKのFMで、同じ曲が流れ、司会は曲名を「ハロー通り」と言った。「ニューヨークの通りの名前なのか、その曲は」と思ったが、ちがった。ネットで調べたら、「ハロー、ドーリー」だった。
youtubeで、その曲を片っ端から聴いてみた。しかし、どんなうまい歌唱でも、どんなうまいトランペットの演奏でも、24年前、ニューヨークの地下鉄ホームで聴いたあのトランペットの曲にはかなわなかった。
「ハロー、ドーリー」は、私の心の中で、24年前、ニューヨークの地下鉄ホームを行きかう様々な人々の中で聴いた、あの瞬間の演奏が今も鳴り響いている。

【第59話】四賀の保養施設「奏奏(sousou)」の新しいHPと新しい法人へのお祝いのコトバ(25.1.15→1.16加筆)


長野県松本市の北のはずれの四賀地区の保養施設「奏奏(sousou)」のHP(>旧HP)がまもなくリニューアルし、お披露目となる。
同時に、これを運営する母体無何有の里もまもなく法人として誕生し、お披露目となる。

以下は、「奏奏(sousou)」の新HPと一般社団法人「無何有の里」の門出を祝して、理事の一人である私のお祝いのコトバ。

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   奏奏(sousou)のホームページと新法人の門出にあたって2つのコトバ

柳原敏夫

1つめ

四十数年前、詩の朗読会で初めて、本物の詩人に出会ったと思った。それが谷川俊太郎さん。昨年彼が亡くなり、初めて彼の詩と文を読み始めた。その中で初めてイタリアの詩人ウンベルト・サバの詩を知った。それが次の「町はずれ」。この詩の一節をもって、四賀という松本の「町はずれ」にある保養施設「奏奏(sousou)」の新しい門出を祝福したいと思う翻訳は須賀敦子

この町はずれの
道でのことだった あたらしい
ことが ぼくに おきたのは

はかない ためいき
に似ていた
不意に 自分のそとに
出て みなと
人生を 生きたいという
あたりまえの 日の
あたりまえの 人びとと
おなじになりたい という
のぞみ。

あれほどの大きな よろこびは
以来 もったことがない。それを人生に
貰おうとも思わない。あのころ ぼくは
はたちで 病んでいた。この町はずれの
新しい道で ためいきのように
はかない望みが ぼくを
捉えたのだった

なつかしい
子どものころには
丘の裸の姿に
まばらな家があちこちに
ちらばり 貼りついていた この場所に
ひとの営みに 駆り立てられて
町はずれの家々が 建っていた
あそこで ぼくは 初めて あまい
空しい
望みに おそわれた。
あたたかい みなの人生のなかに
ぼくの人生を入りこませ
あたりまえの日の
あたりまえの人びと
と おなじに なりたいという
のぞみ に。


2つめ

 昨年2月の雪の中、東京から父子が「奏奏(sousou)」に宿泊した。初めて、四賀の地に足を踏み入れたという彼らに「どうですか?」と感想をたずねたら、「なんにもない、まったくない。それがすっごく新鮮だ」と感動を語ってくれた。そう、「奏奏(sousou)」の真骨頂は「なんにもない」というノンセンスにある。この父子はみごとにそれをキャッチした。

谷川俊太郎さんは、生前くり返し、アクティビストの鶴見俊輔さんのノンセンス発言を紹介した。

「人間っていうのは、どうしても人生にいろんな意味を見つけたがる、意味を追求したがる。だけど、人生には意味だけがあるんじゃなくて、手ざわりというものがあるんだ。ノンセンスは存在の手ざわりをわれわれに教える」

晩年の谷川さんは、自分の理想は「雑草のような詩を書くこと」だと言いました。雑草とは別に意味もメッセージもない、どこの馬の骨か分からないようなありふれた存在、けれど、それは命を持った、これ以上ないくらい確固とした、強い存在です。そういうノンセンスの存在である雑草のような詩を書くのが自分の理想だと。
それを読み、本当に素晴らしいと思った。
他方で、四賀という松本の「町はずれ」にあり、特別な意味もメッセージも持たないノンセンスの地で、同時に自然の命と人間がしっかり大地に根づいているこの地で、これから始まる「奏奏(sousou)」の保養事業もまた「雑草のような強い存在」をめざしている。
だから、奏奏(sousou)は谷川俊太郎さんの理想とリンクしている。

今、
「雑草のような強い存在」を、これから始まる一般社団法人「無何有の里」への私自身の初心として、そして谷川さんからの遺言として胸に刻もうと思う。

2025年1月14日火曜日

【第58話】2025年の振り返り:あいつは本当に「ノンセンス犬」だった(25.1.15)

 谷川俊太郎がくり返し語る鶴見俊輔のノンセンス発言(詳細は>第57話

「人間っていうのは、どうしても人生にいろんな意味を見つけたがる、意味を追求したがる。だけど、人生には意味だけがあるんじゃなくて、手ざわりというものがあるんだ」
「ノンセンスは存在の手ざわりをわれわれに教える」

それと同じことを言うのが養老孟司。マルというネコと一緒に暮らした生活を振り返って、そこで何があったのかというと、

気分が変わるのです。猫がいる気分というのは、結構落ち着くのです。‥‥猫がいる気分というのが大事で、気分というと何となくそのとき限りで馬鹿にされますが、やはり人生全体を考えると良い気分でいる方がいいですね。年をとると、雰囲気や気分は、学問的ではないけれど、重要なことだと思います。科学者の横顔Vol.5

マルというネコの存在には意味もメッセージもない。その意味でノンセンス。それは何も意味を与えない代わりに、それまでにはない気分や雰囲気をもたらしてくれる。それが貴い、何物にも換え難い。それが鶴見俊輔が言う「存在の手ざわり」。

そう思ったら、30年近く前に飼い始めたゲンという犬が思い出された。ずっと、頭がちょっと足りないんじゃないかと思ってきたが、実は足りないのはお前の頭(のバカの壁)のほうで、ゲンはセンスが足りないんじゃなくて、もし喋らせたらスヌーピーにも負けないくらいのノンセンスが満ち溢れていた、最高のノンセンス犬だったんだ。あのノンセンス犬がもたらした未知の奇妙な気分、それは本当に、何物にも換え難い「存在の手ざわり」だった。
いま、彼は私の無二の師だ。

        





【第57話】2025年のつぶやき再開5:鶴見俊輔「ノンセンスは存在の手ざわりをわれわれに教える」(25.1.14)

                鶴見俊輔(1970年)

20代末に司法試験受験生活にピリオドを打った時(1981年)、最初やったことの1つが大江健三郎と鶴見俊輔の講演会を聞きにいったことだった。鶴見の演題は「竹内好の方法論」のようなものだった。その内容は強烈なもので、今なお私の心に刻まれている(>その詳細)。
だから、谷川俊太郎がくり返し鶴見俊輔の言葉を引用するのは分かる気がする。鶴見もまた、脱「脳化社会」の問題意識を鋭く持っていた重要な人だと今日、気がついた。

生前、谷川俊太郎はくり返し鶴見俊輔に触れ、とくに彼のノンセンス発言について、自身の詩作の核心に関わるテーマとして喋っている。

鶴見俊輔さんのことばだったと思うんだけれど、「人間っていうのは、どうしても人生にいろんな意味を見つけたがる、意味を追求したがる。だけど、人生には意味だけがあるんじゃなくて、手ざわりというものがあるんだ」という言い方をされていて。(※)
鶴見さんのことばで「ノンセンスは存在の手触りをわれわれに教える」というのがあって、それをなるほどと思った記憶があります。(波瀬満子との対談集『かっぱ、かっぱらったか?—ことばをあるく9000日』)(ほかにも「現代作家アーカイヴ2」54頁)

ノンセンスとはただの駄洒落、言葉の次元のたわむれではない。

人が言語では表現できない、言語以前の存在に触れ、そこに立ち向かおうとするとき、否応なしに使わざるを得ない表現手段、それがノンセンス。

谷川は、ノンセンスを詩で書こうとした。というより、詩を詩たらしめるものがあるとしたら、それはノンセンスを通じて世界に立ち向かうこと、それしかないと確信した。

だから、ノンセンスとは何か?具体的なもので示せといわれたら、それは雑草だと谷川は言った。
なぜなら、雑草は意味もなければ、メッセージもない、ただそこに命を持ったものとして存在するだけの、生き物の手触りをもっとも端的に表現するものだから。

だとしたら、雑草というビジョンから出発して、ノンセンスのイメージを掴んでいけるんじゃないか。
例えば、雑草に対応する動物なら、雑種
           人間なら、チンピラ‥‥
             昆虫なら、虫けら 


(※)(ナンセンスとセンス/鶴見俊輔 今江祥智 上野瞭 1972)

・センスは究極のところでナンセンスにぶつかるわけです。つまり、存在そのものは無意味なものなので、海辺に波が打ち寄せてくる、引いてまた打ち寄せてくる、その状態なんだ存在というのは。その状態を、意味のなさにおいて受け入れる。そして、その存在の感触を楽しむ。それを子供の時に教えてやると、これは楽しいじゃないかなんてことを存在の感触の楽しさというものを子供が知る手立てになる。そして、そのことによって生もまた耐えうるものになるってことがあるじゃないですか。

・もし子供にセンスから教えると、ある時にセンスの不合理生を考えたらもう、全然やる気を無くしちゃうわけですよ。始めにナンセンスに浸ると、センスそのものはその後、生きる技術ソテひ部分的な正当性を与えるとしても、全体はナンセンスの中にあるものとして安住できる。

・センスを頑なにこれだけが世界だと考えていると、視点が固定してくるでしょ。目隠しされた馬みたいに。それに対する一種の揺す振りをナンセンスは作っていると思うんです。そいういうところで、鏡の国のアリスに出てくる「ハンプティダンプティの”誕生しない日々のおくりもの”」や「ティードルディーとティードルダムの夕食まで喧嘩しなけりゃならないというもののバカらしさ」といったナンセンスというのは、センスの過同調に対するブレーキをつくっている気がする

・枕詞っていうのは初めがセンスがあったわけですよね。それがだんだんと形式的に使いこなす中でナンセンスに移行していく。つまり、中身をぽこっと落としちゃってからのバケツとしてやりとりするようになるんですよ。数学的になってくる。だから、それは大地に密着した生命のリズムや暮らしの共同体のリズムになっていくんだけれど、リズムがリズムとして感じられるようになってくるとそれはナンセンスになっていく。そうした存在の鼓動みたいなものを受け入れるっていうのがナンセンスの解釈なんじゃないですか。存在に対する新しい感触。意味はないけれども全く血潮が流れていくのをただ感じていく感じ。

2025年1月13日月曜日

【第56話】2025年のつぶやき再開4:「だから、どうだっていうのさ」への再リアクション(25.1.14)

以下は谷川俊太郎と高橋源一郎との対談「バカみたいなものを書きたい」(1985年)に触発されたもの。

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チェルノブイリ法日本版の訴え、これに対する最もシビアなリアクションが、

だから、どうだっていうのさ。

この「オレには関係ねえよ」という半ば開き直り、半ば無関心なリアクションは最強だ。なぜなら、人には他人に訴える表現の自由も、他人からの訴えを無視する自由もひとしく保障されているからだ。

これまで、この最強のリアクションに対し、私が取ってきた態度は次のようなことだった。

自分のことだけなら、それでもいい。
でも、これはそれでは済まない。
自分の子、孫、家族、友人の子、孫、家族、その周りの子、孫、家族に深刻な影響を及ぼす。
それを、このまま開き直れるだろうか。

しかし、その後、それはちょっとおかしいんじゃないか。でないとしても、どうもそれだけでは足りないんじゃないかと思い直すようになった。
前者は、なにか相手に呪いをかけているような脅迫的なものがあると思えたから。
後者は、相手本人について迫らずに、子ども、孫、家族という本人の弱みに付け込んで訴えているのが何とも厭らしく思えて、そんなことをしないで、もっと真正面から本人自身について、ズカッと、再リアクションすべきではないかと思えたから。
     ↓
(1)、前者:脱「呪い」
 キリスト教の布教でよく聞かれた「信じない者には罰が下る」といった呪いをかけるやり方、殆どこれと同じ訴えが市民運動の中でもくり返されている。相手を不安に落しいれるのではなく、暗黒の中で希望を求めて、相手を励ます、元気付ける訴えをすること。そのためには、訴えをする者自身が、いつも、自分自身を鼓舞する探求(暗黒の中で希望を求める認識と実践)をしていることが大前提。

(2)、後者:脱「脳化社会」
原発事故の救済について、現状を変えていく必要があることを、単に「自分の子、孫、家族、友人の子、孫、家族、その周りの子、孫、家族」をダシにして訴えるのではなくて、ほかならぬ相手自身のために避けて通れない問題であることを理解させること。
      ↓
ならば、それはいかなる意味で、これが相手自身のために避けて通れない問題であるのか。
      ↓
この課題を考えていて、その中で思いついたことの1つが昨夏出会った「脳化社会」論。
日本版が提起する問題は単に「原発事故の救済」の問題にとどまらない、「脳化社会」のどん詰まりを象徴する出来事であり、このゴミ屋敷は我々の姿そのものであること、つまり「原発事故の救済」を放置する法治国家ニッポン社会そのものの姿が映し出されている。そう認識すべきであること。
      ↑ 
もっとも、そのことを理解してもらうために、「原発事故の救済」の問い直しの仕方、その表現方法で試行錯誤してきた。
つまり、
(1)、従来の自分のやり方のように、論理的、理詰めでいくのでいいのか
       ↑
それは、「脳化社会」内の意識言語でもって「脳化社会」批判をどこまで徹底してやれるのか。
とくに、人々が新たな一歩である、脱「脳化社会」に一歩踏み出すためには、もっと別の表現方法で迫る必要があるのではないか。
言ってみれば、脱「脳化社会」に相応しい表現方法で、「脳化社会」に安住している人たちの頭を引っぱたくくらいのことを、彼らの頭の上から冷や水を浴びせるくらいの必要があるのではないか。
       ↓
そのひとつが、
(2)、ノンセンス(非意味)で行く。
つまり、(1)が「脳化社会」内の意識言語だとしたら、これは脱「脳化社会」言語、(1)からはみ出した自然世界そのものから誕生した母国語のこと。

【第55話】パンセ:脱「脳化社会」に挑戦した先人たち(小林秀雄)(25.1.14)

 脱「脳化社会」に挑戦した先人たちのひとりに、小林秀雄がいたことを再発見。
それは彼の当初からの脱「自意識」の取組み、志賀直哉に対する高い評価からも窺われる。

とはいえ、彼自身が、「脳化社会」のことをどう考えていたかは分からない。だとしてもそれはどうでもいいことで、小林秀雄を上のように捉え直すことが今の自分にとって、小林秀雄を「その可能性の中心」として捉えることであり、それが生産的だ。

小林秀雄がドストエフスキーに注目したのも、ドストエフスキーが「脳化社会」の中でのヒューマニズムに違和感を抱き、「脳化社会」の塀の外に出て、そこにうごめく、自然世界の中の生き物としてのニンゲンに注目し、その生き様からニンゲンを再発見したドストエスフキーに小林秀雄もまた注目したのだ。その最初の一歩が「死の家の記録」。

それはまた、小林秀雄が柳田国男に注目したのと同様だ。彼が取り上げた大正15年の「山の人生」。これは脱「ヒューマニズム」という意味で、ドストエフスキーの「死の家の記録」に対応する。
柳田もまた、ドストエフスキーと同様、「脳化社会」の中での芸術、文化、ヒューマニズムに違和感を抱き、「脳化社会」の塀の外に出て、そこにうごめく、自然世界の中の生き物としてのニンゲンに注目し、その生き様からニンゲンを再発見した。その再発見のプロセスは、まるで谷川俊太郎の詩の発見のプロセスのようだ。

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一 山に埋もれたる人生あること


 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃みのの山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、まさかりり殺したことがあった。
 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘をもらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きなおのいでいた。阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられてろうに入れられた。
 この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ながもちの底でむしばみ朽ちつつあるであろう。

 また同じ頃、美濃とは遙かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとにきていた。ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里にかえってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑いあざける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。
 大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い隙間すきまから、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気にかえった時には、おっとも死ねなかったものとみえて、れた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首をって自らくびれており、赤ん坊は滝壺たきつぼの上のこずえ引懸ひっかかって死んでいたという話である。
 こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕ゆうじょがあったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村のすみに、まだがらのような存在を続けていることであろう。
 我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。

 

【第54話】パンセ:谷川俊太郎の人気の秘密、脱「自意識」(25.1.14)

 谷川俊太郎は現代詩人として珍しく、人気が、老若男女にあまねく人気が高い。
それは何に由来するのか。

それは谷川が老若男女を問わず、人々とのコミュニケーション能力がずば抜けて高いことによる。
では、なぜ、コミュニケーション能力が高いのか。

それは谷川の詩が、「自分の内面を表現し、伝えること」をめざしたのではなく、
脳化社会の外の世界で起きている、彼にとって驚きの出来事を、できるかぎり正確に言葉を使って表現し得たから。
モーツアルトが、自分の耳が聴いた外界の世界の音そのまま楽譜に書きとめたように、彼もまた、自分の目が見た、自分の耳に聞こえてきた世界をそのまま忠実に分かりやすい言葉で紙に書きとめようとした。
ただし、そのためには、選択する言葉の体系が、今や脳化社会の中で意味に囚われて意識言語、概念言語に堕していて、これをそのまま詩に持ち込むことは出来ないと考えた彼は、脳化社会に浸潤されていない、自然世界で使われてきた自然言語によって、脳化社会の外の世界で起きている出来事を表現する必要があると考えた。それは正しい、だが「言うは易き、行い難し」の実践だ。

しかし、それが、どうやったら人々の心に届く表現を獲得するか、という最重要な問いに対する核心的な答えの、しかも最初の一歩だ。

最初の一歩である「人々の心に届く表現を紙に書き留めた」あと、その次の第二歩が、その書き留めた表現をどうやって人々に届けるかという作業。それが【第52話】で書いたこと。

【第53話】パンセ:池田直樹の「とおる声、とおらない声」より(25.1.14)

 谷川俊太郎司会の「声の力」の中で、声楽家の池田直樹が「とおる声、とおらない声」という見出しで、こう述べている。

ヴァイオリンの音を不思議だと思ったことはありませんか。
ヴァオリン協奏曲では一人の独奏者の後ろに、第1ヴァイオリン8人、第2ヴァイオリン8人が弾いているのに、独奏者のヴァイオリンの音が際立って聞こえてきます。
独奏者だけが特別に大きな音を出しているわけではありません。
不思議でしょう。
それは、優れた音質が可能にしているのです。
声も、音量ではなく、音質が優れていることが大事なのです。
それは、才能の差以上に、力が入っていない、力んでいないということが大事なようです。
(91頁)

これもまた、声の力とは、喉=声にあるのではなく、全身全霊に宿ることを示すもの。
そして、「力が入っていない、力んでいない」とは、【第52話】で書いた、聴衆を捉えるのは「自分のからだの覚えた言葉」で発するとき、に通じるもの。

【第52話】パンセ:谷川俊太郎の「声の力」より(25.1.14)

私のアメリカの友人で、いわゆるストーリーテリングをしている男がいる。
彼によると、本を読む「読み聞かせ」よりも、自分のからだで覚えた話の「語り聞かせ」のほうがはるかに聴衆をとらえるそうだ。

書き言葉は(話し)言葉からある種呪術的といっていい力を奪った。
(11頁)

実に銘記すべき一文。

なぜなら、自分は幼年時代からずっと、話し言葉を敬遠してきた。おそらく自分のどもりのせいもあり、話し言葉ではうまくコミュニケーションが取れなかったというコンプレックスの体験が作用しているからではないか。
そこで、その負の体験の負の穴埋めをするため、話し言葉から書き言葉にシフトして、書き言葉の土俵の上で、勝負しようと取り組んできた。その結果、声は消え、もっぱらコトバの意味だけに着目して、正確な内容を表現することに腐心した。
それは情報伝達の脳化社会の中では有利な地位を占める取り組みだった。

しかし、その結果、話し言葉の可能性が全て消し去られた。
それが、話し言葉の力ーーそれは生き物が持っているささやき、声、呪術などの力。


いま、講話、スピーチをする以上、それは語り言葉で語られるべきで、たとえどんなに準備が大変であろうとも、役者のように、あらかじめ原稿を自分のからだで覚え込ませる必要がある。
だから、原稿は書いて完成なのではなく、からだで覚え込ませて初めて初めて準備が完成するーー今まで、それに全く気が付いていなかった。

【第51話】2025年のつぶやき再開3:池田直樹の「声の力」の源泉に震撼(25.1.14)

2001年、 谷川俊太郎司会のパネルディスカッション「声の力」の最後で、声楽家の池田直樹がこう言った。

1980年にミュンヘンで世界的なバス歌手のハンス・ホッターのもとで勉強したとき、彼のレッスンで、とにかく四小節も歌わせてくれない。ワーグナーの「なんとニワトコの花の香りが甘く漂っていることか」というアリアを私が歌っていたときです。自分がちょっと歌うと、怒り出す。何がいけないの、どこが?ちゃんと譜面どおり歌ってるじゃない、と思うのに、もう1回、もう1回と言うばかりで、何がいけないのかちっとも教えてくれない。
ほとほと困っていたら、彼が歌って聴かせてくれた、そのとき、感動したんです、それは彼が歌ったのを聴いて感動したんじゃなくて、彼が歌う前に息を吸ったのを見て感動したんです。

彼が歌う前のその瞬間、本当に彼がニワトコの花の香りを嗅いだように見えたんです。でも、彼はそれをそうとは説明してくれなかった。
歌う前に白い息を吸わない。つまり、怒る歌を歌うときには、必ずその前に怒る息が入って歌う。笑うときには笑う息が入って歌いだす。悲しいときには悲しい息が入って、その悲しい歌が始まる。
白い息を吸って、声が出た瞬間から表情が始まるのではないというのを知ったのは、彼のそのレッスンのときです。それはもうほんとに衝撃的でした。
(「声の力」153頁)

言われてみれば、まったくその通りで、
マリア・カラスの動画からも、そのことははっきり分かる。

 


 



しかし、言われてみて初めてストーンと落ちることがあるとは、
このようなことを言う。
「声の力」はけっして声ではなく、息を吸うことから始まって全身全霊に宿る。


【第50話】パンセ:ウンベルト・サバの詩「町はずれ」からさらにはずれて、の続き(25.1.14)

 昨日、ウンベルト・サバの詩「町はずれ」からさらにはずれて、の詩もどきものを書いた(【第47話】)。

しかし、あれは未完。

なぜなら、あれは殆ど「意味」と「メッセージ」に覆われている意味的言語で書かれている。
もし、それを詩にするんだったら、そこからさらに、「意味」と「メッセージ」を剥ぎ取って、あたかも意味もメッセージもない雑草のように、誰にでも分かるノンセンスで表現し直す必要がある。
ちょうど、【第47話】に書いたように、

生きとし生けるものを信頼
し 
生きとし生けるものにわかる
言葉を話し わかることを
しようと。パンやぶどう酒や
子供や 女みたい に
生きとし生けるものだれにでも わかる ことだけを。

 を自ら実行する必要がある。

【第49話】パンセ:「ストック」か「フロー」か(25.1.14)

 谷川俊太郎は、あちこちで、作品(詩)のあり方が、

昔の詩は「ストック」で、蓄積されていたのに対し、
今のネット上の詩は「フロー」で、どんどん流れていき、忘れ去られていく、

と語っている(和合亮一との対談「にほんごの話」143頁)。

けれど、昔の作品だったら、みんな 「ストック」で、蓄積されていた訳でもない。実際は多くの作品が「フロー」で、どんどん流れていき、忘れ去られていく。

結局、 今の作品でも、「ストック」されるか「フロー」で消えていくかは、その作品を人々がどれだけくり返し反復するかどうかにかかっている。
現在のネット社会が、すべての情報を「フロー」として受け流している巨大「フロー」社会だとしても、その濁流にもかかわらず、人々が反復したいと思うような、そのような反復に耐えるだけの力を備えた作品であるかどうかにかかっている。

 

【第48話】パンセ:自然哲学の再発見(25.1.14)

これまで、自然哲学とは自然世界を認識するための探求、とばかり思ってきた。
けれど、実はそれにとどまらない。
自然哲学とは、
自然世界と脳化社会との折り合いをどうつけるか、
その折り合いに基づいて、自然世界とどうつきあうか、
そして、自然世界をどう愛するか、
なおかつ、脳化社会をどう変革するか、
それらを実践するための探求である。

それは現在、最も緊急の、最も重要な取組み。
いま、大老人の養老孟司が、病を押して取り組んでいること。

【第47話】2025年のつぶやき再開2:ウンベルト・サバの詩「町はずれ」からさらにはずれて(25.1.13)


                ウンベルト・サバ(1883年~1957年)

 谷川俊太郎の散文の特徴のひとつーー詩の話題が少ないこと。
その少ない話題の中で、彼が「胸を打たれた」と取り上げてたのが須賀敦子の「ミラノ 霧の風景」に紹介されていたイタリアの詩人ウンベルト・サバの詩「町はずれ」。
これは谷川俊太郎の初心そのものを彼の生まれる10年前に詠ったもの。

私も気に入った。そこで、「町はずれ」に触発されて、さらにはずれてみたいと思い、無謀にも詩のまねごとを書いてみた。
まずサバの詩(訳須賀敦子)を一部、紹介する。

この町はずれの
道でのことだった あたらしい
ことが ぼくに おきたのは

はかない ためいき
に似ていた
不意に 自分のそとに
出て みなと
人生を 生きたいという
あたりまえの 日の
あたりまえの 人びとと
おなじになりたい という
のぞみ。

あれほどの大きな よろこびは
以来 もったことがない。それを人生に
貰おうとも思わない。あのころ ぼくは
はたちで 病んでいた。この町はずれの
新しい道で ためいきのように
はかない望みが ぼくを
捉えたのだった

なつかしい
子供のころには
丘の裸の姿に
まばらな家があちこちに
ちらばり 貼りついていた この場所に
ひとの営みに 駆り立てられて
町はずれの家々が 建っていた
あそこで ぼくは 初めて あまい
空しい
望みに おそわれた。
あたたかい みなの人生のなかに
ぼくの人生を入りこませ
あたりまえの日の
あたりまえの人びと
と おなじに なりたいという
のぞみ に。

みなを信頼
し みなにわかる
言葉を話し わかることを
しようと。パンやぶどう酒や
子供や 女みたい に
だれにでも わかる ことだけを。


次に、私はここからさらにはずれてみたいと思った。それは昨夏の脱「脳化社会」への渇望の目覚めという経験をこんな風に表現して。


この脳化社会のはずれの
道でのことだった あたらしい
ことが ぼくに おきたのは

はかない ためいき
に似ていた
不意に 脳化社会の塀のそとに
出て 生きとし生けるみなと
生命を 生きたいという
あたりまえの 日の
あたりまえの 
生きとし生けるもの
おなじになりたい という
のぞみ。
あれほどの大きな よろこびは
以来 もったことがない。

あのころ ぼくは
脳化社会で 病んでいた。この
脳化社会のはずれの
新しい道で たつまきのように
はげしい望みが ぼくを
捉えたのだった

なつかしい
子供のころには
丘の裸の姿に
まばらな家があちこちに
ちらばり 貼りついていた この場所に
ひとの営みに 駆り立てられて
町はずれの家々が 建っていた
あそこで ぼくは 初めて あまい
激しい
望みに おそわれた。
あたたかい 
生きとし生けるものの生のなかに
ぼくの人生を入りこませ
あたりまえの日の
あたりまえの
生きとし生けるもの
と おなじに なりたいという
のぞみ に。

生きとし生けるものを信頼
し 
生きとし生けるものにわかる
言葉を話し わかることを
しようと。パンやぶどう酒や
子供や 女みたい に
生きとし生けるものだれにでも わかる ことだけを。

【第108話】2025年の気づき10:住まいの権利裁判、「損害の欠缺」の補充の法理を考えている中で、初めて「欠缺の補充の(具体的な)法理」の意味を突き止める経験をした(25.6.11)

◆ はじめに 311後の日本社会の最大の法律問題ーーそれは原発事故の救済に関する全面的な「法の欠缺」状態の解決である。なぜなら、311後の日本社会は原発事故の救済に関して、これまでの「法治国家」から「放置国家」に転落したから。ただし、これはひとり国家だけの責任ではない。法律家も含...