2025年1月15日水曜日

【第59話】四賀の保養施設「奏奏(sousou)」の新しいHPと新しい法人へのお祝いのコトバ(25.1.15→1.16加筆)


長野県松本市の北のはずれの四賀地区の保養施設「奏奏(sousou)」のHP(>旧HP)がまもなくリニューアルし、お披露目となる。
同時に、これを運営する母体無何有の里もまもなく法人として誕生し、お披露目となる。

以下は、「奏奏(sousou)」の新HPと一般社団法人「無何有の里」の門出を祝して、理事の一人である私のお祝いのコトバ。

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   奏奏(sousou)のホームページと新法人の門出にあたって2つのコトバ

柳原敏夫

1つめ

四十数年前、詩の朗読会で初めて、本物の詩人に出会ったと思った。それが谷川俊太郎さん。昨年彼が亡くなり、初めて彼の詩と文を読み始めた。その中で初めてイタリアの詩人ウンベルト・サバの詩を知った。それが次の「町はずれ」。この詩の一節をもって、四賀という松本の「町はずれ」にある保養施設「奏奏(sousou)」の新しい門出を祝福したいと思う翻訳は須賀敦子

この町はずれの
道でのことだった あたらしい
ことが ぼくに おきたのは

はかない ためいき
に似ていた
不意に 自分のそとに
出て みなと
人生を 生きたいという
あたりまえの 日の
あたりまえの 人びとと
おなじになりたい という
のぞみ。

あれほどの大きな よろこびは
以来 もったことがない。それを人生に
貰おうとも思わない。あのころ ぼくは
はたちで 病んでいた。この町はずれの
新しい道で ためいきのように
はかない望みが ぼくを
捉えたのだった

なつかしい
子どものころには
丘の裸の姿に
まばらな家があちこちに
ちらばり 貼りついていた この場所に
ひとの営みに 駆り立てられて
町はずれの家々が 建っていた
あそこで ぼくは 初めて あまい
空しい
望みに おそわれた。
あたたかい みなの人生のなかに
ぼくの人生を入りこませ
あたりまえの日の
あたりまえの人びと
と おなじに なりたいという
のぞみ に。


2つめ

 昨年2月の雪の中、東京から父子が「奏奏(sousou)」に宿泊した。初めて、四賀の地に足を踏み入れたという彼らに「どうですか?」と感想をたずねたら、「なんにもない、まったくない。それがすっごく新鮮だ」と感動を語ってくれた。そう、「奏奏(sousou)」の真骨頂は「なんにもない」というノンセンスにある。この父子はみごとにそれをキャッチした。

谷川俊太郎さんは、生前くり返し、アクティビストの鶴見俊輔さんのノンセンス発言を紹介した。

「人間っていうのは、どうしても人生にいろんな意味を見つけたがる、意味を追求したがる。だけど、人生には意味だけがあるんじゃなくて、手ざわりというものがあるんだ。ノンセンスは存在の手ざわりをわれわれに教える」

晩年の谷川さんは、自分の理想は「雑草のような詩を書くこと」だと言いました。雑草とは別に意味もメッセージもない、どこの馬の骨か分からないようなありふれた存在、けれど、それは命を持った、これ以上ないくらい確固とした、強い存在です。そういうノンセンスの存在である雑草のような詩を書くのが自分の理想だと。
それを読み、本当に素晴らしいと思った。
他方で、四賀という松本の「町はずれ」にあり、特別な意味もメッセージも持たないノンセンスの地で、同時に自然の命と人間がしっかり大地に根づいているこの地で、これから始まる「奏奏(sousou)」の保養事業もまた「雑草のような強い存在」をめざしている。
だから、奏奏(sousou)は谷川俊太郎さんの理想とリンクしている。

今、
「雑草のような強い存在」を、これから始まる一般社団法人「無何有の里」への私自身の初心として、そして谷川さんからの遺言として胸に刻もうと思う。

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