さっき(第36話)、自分が考えてきた人権が「脳化社会」の申し子なのではないか、という疑問にさらされてみて、そこから、再び、過去に惹かれた作品が人権とのかかわりで新たな輝きを放って、目の前に登場して来るという経験をしている。その第1号がこれ。
35年以上前、高校生が書いたこの詩は、私にとって、どんな人権の教科書にも、これまで読んだことのなかった、自然世界との新たなつながりを見出した、人権の新大陸発見のような斬新な詩だ。
それは、「未知の普遍的なものを見る」見者にならなければと考えた(ー>ランボーの手紙)18歳のランボーが書いた詩「地獄の季節」の次の一節を髣髴とさせる。私にとって、もうひとりのランボーの誕生。
見つかった。何が?
永遠が。海と溶け合う太陽が。
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大地に緑を 壁に表現を
昨日悲しい話を聞いた。
高2の生徒が学校の校舎の壁に自分のやっているバンドのメッセージを貼ったところ、先生の手で勝手にはがされてしまったという。何度貼ってもそのたびに、次の日には根こそぎはがされてしまうそうだ。
でも別に、彼女のビラが嫌がらせに貼っているわけじゃない。事実、掲示板に貼ってあるビラはそのまま残っている。
彼女の書いたビラは、掲示板以外の場所に貼られたゆえに剥がされてしまった。
でも、彼女は、掲示板に押し込められた画一的な表現に飽きたらなかった。もっといろんな場所で彼女のメッセージをみんなに伝えたかった。でも、自由の森という場所ではそういうことが許されないらしい。
そこにある壁がただ白くあることがそんなに大切なのだろうか?
白い壁を大地にたとえれば、そこに自然に種が運ばれ、芽吹き、草が生い茂るごとく、壁に表現がうまれ、広がってゆくのは当たり前ではないか。1枚のビラから生まれた出会いが、その人の人生まで変えることだってある。目の前にあるビラをただ機械的に剥がす前に、その1枚のビラから広がるかもしれない人々の輪を想像することのほうがどんなに楽しくて意義のあることだろう。
大地に除草剤をまくごとく、白い壁に芽吹いたささやかな表現を殺してしまえば、命を失った大地のごとく、壁も死んでしまうだろう。死んでしまった砂漠は美しくあるけれど、何も生み出さない。
自由の森の先生たちは、確かに素晴らしい理想を持っているけれど、自分の足下である学校から、雑多な可能性がつみとられていく現状ではその言葉もうつろにしか響かない。自由の森は、製品を作る工場ではない。誰かの夢のなかの箱庭ではない。
もう一度繰り返すけれど、そこにある壁がただ白くあることが、なぜそんなに重要なのだろうか?いったい誰がどういう権限のもとに、なんの権利があって、僕たちの表現を殺し、僕たちの可能性を押し消そうとするのか?
壁はただ白くあることが、もし重要であるのなら、そのわけを教えてほしい。」
(H・S「水曜日」88年12月)
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