2025年1月12日日曜日

【第45話】マーク・トウェインの長女の話から、ひとりの自主避難者(長谷川克己さん)の話が天啓のように思い出された(25.1.13)

 

マーク・トウェイン 15歳(ウィキペディア

 

      長谷川克己さん 

「 トム・ソーヤーの冒険」の作者マーク・トウェインは、自伝の中で、7歳の長女スージーについてこう書いている(ちくま哲学の森4「世界を見る」)。

よその子と同じように、スージーも快活で楽しそうに動き回り、遊ぶのが好きだったが,
‥‥ 時々、かなり長いこと自分自身の中に閉じこもり、人間存在のいろいろな謎や悲哀の深く隠された意味を解明しようと、子どもなりに必死に努力していた。わずか7歳の子どもだというのに、人間の歴史始まってから、大の大人たちを途方に暮れさせてきたのと同じ問題、
つまり‥‥
子ども部屋に一人ぽつんと閉じこもり、こういうことを長い時間をかけて考えに考えたあげく、娘はためらいながら、自身のたどたどしい言葉で、以上のことをあらかじめ母親に話してからこう
尋ねるのであった。
「おかあさん、みんな、何のために生きているのかしら」
‥‥
妻は娘に何度も何度も、「ねえ、スージーちゃん、そんな些細なことでいつまでも泣いたりしないことよ」と言ってなだめるのだった。
こう言われた
スージーはまたも悩むのだった。娘は自分にとって大事件と思われるいろいろなことーーおもちゃがこわれたとか、ひどい雷雨でピクニックが中止になったとか、子ども部屋で馴れ親しみ仲よしになっていたハツカネズミがネコにつかまって食い殺されたしまったこととかに小さな心を痛めていたが、この母親の言葉を聞いて、突然、天啓のような不思議な考えに行き当たったのである。
どうしてかわからないが、今みたいなことは大きな不幸とはいえないらしい。
どうしてでしょう?
不幸の大きさってどうやって測るのかしら?
その物差しは何なのかしら?
大きい不幸と小さい不幸とを区別する方法がきっとあるに違いないわ。
だとすると、その割合を決める規則ってのは?
娘は二、三日真剣にこのことを考えた
ーーが、結局、よく分からなかった
ーー挫折したのである。とうとう諦めて母親のところへ行き、助けを求めた。
「おかあさん、『些細なこと』ってなあに?」

‥‥それは、(母親が)その答えを言葉にしようとすると、意外にも予期しなかった困難に直面してしまい、それが次第にふくらみ、倍加していき、また別の挫折感となり、説明しようといくら努力しても行き詰ってしまうのだった。
‥‥
そこで一つの結論に到達した。それは、これから自分の不幸の大きさを測る時には、スージー自身の物差しで測ってよいということになったのである。

これを読んだ瞬間、311のとき、世の中の「些細なこと」と「些細ではないこと」の区別の問題に直面し、そこで危ないと感じ、悩んだ末に、自分自身の物差しでこの区別を判断して自ら行動したひとりの自主避難者(長谷川克己さん)の話が思い出された。それは原発事故発生における最も核心的な問題に正面から挑み、意義深い決着を付けたものであって、次の話だった。

 3月12日の原発1号機の爆発の時でした。この爆発の映像をくり返し流すTVに、介護施設で勤務中だった長谷川さんが周りの職員に「とうとう、原発が爆発したぞ」と言ったら、相手はこう反応した。
今それどころじゃないですよ。大変なんですから」
「あっちでトイレ、こっちでメシって、大変なんですから。原発が爆発したなんて、かまってられないすよ

長谷川さんはこの言葉を聞き、ハッと思った--この人は「大小の区別がつかない」。あっ、ダメだ、これと足並みをそろえていたら、やられるぞ、危ないぞ、と。

私は、マーク・トウェインの自伝の内容から一歩前に踏み出し、子どもは誰でも、7、8歳で、自身の頭で、大なり小なり程度の差はあったとしても、人間存在のいろいろな謎や悲哀の深く隠された意味を感じ、それを考える素地を有していると確信するものだ。それをミヒャエル・デンデや谷川俊太郎はポエジー=幼な心と呼んだ。私にとって、それは子どもたちが文科省の学校教育システム(それは子どもたちにとって最大の「脳化社会」世界)に浸潤される前の、自然世界の中で持っている、生き物として最も貴い本能的感性のようなものだ。
ただし、現実の子どもたちは、その年頃に、不幸なことに、学校教育のシステムの中にほおり込まれ、調教の日々の中で、すっかり世俗的な「大小の区別」に追いまくられ、スージーのような悩みに向き合うことをすっかり奪われてしまい、ポエジー=幼な心、生き物としての貴い本能的感性にしっかりフタをする習慣を強いられる(それこそ実に最悪の人権侵害である)。

しかし、 マーク・トウェインの長女はそうでなかった。そして、長谷川さんもそうでなかった。ふたりとも、自分なりに、ポエジー=幼な心=生き物としての本能的感性を見失わなかった。
それについて、長谷川さんは9年後の2020年にこう振返っている。

9年後の今から振り返っても、このときの反応が過剰だったと思うことはほぼない。むしろ、あのとき、あそこで「危ない」と思わないのはおかしいと思う。それは知識だとか何とかではなくて、動物的勘の問題だ、と。
あとから知った言葉で予防原則、この当時、自分の中で予防原則が働いたんだと思う。それは、とにかく危ないものには近寄るな。危ないか危なくないか迷った時には、危ない方に寄せて物を考える。
ただし、それは別に特別なことでなくて、普段、仕事でも、普段生きていてもそうしている。予防原則を使っている。
それなのに、なんで、こういう大事故の時にだけ、みんな危くない方に寄っていこうとするのか!?と思った。
その違和感が強烈にあって、当時これが集団心理としてみんなの中で、おっかない形で働いているとすぐ分かったので、それに惑わされないようにしようということで、すごく敏感になった。


それを聞き、今改めて思う。長谷川さんはこのとき、こう言いたかったのではないかと。

何よりも重要なことは、知識だとか何とかではなく、まず、動物的勘。
なぜなら、今、我々にそもそも欠けているのが、放射能に関する正しい知識ではなく、そのような知識を切実に求める「 動物的勘」そのものだと。
動物的勘が正常に働けば、そこから必要な知識を求める行動に出れるが、それが働かなければ、馬の耳に念仏で、いくら正しい知識を提供してその人の眼に入らず、耳に聞こえてこないから。

そして、2020年の振返りのときに、311直後、長谷川さんが自分なりに、ポエジー=幼な心=生き物としての本能的感性動物的勘)を見失わなかった理由を尋ねたら、こう返事が返ってきた。

 子どもがいたからです。もし子どもがいなかったら、ちがっていたと思います。

それを聞き、今改めて思う。
彼にとって一番大切なものは子どもであり、「子どもを守らねば」と考えたとき、子どもと長谷川さんの心がピッタリ繋がった。つまり子どもが本来持っているポエジー=幼な心=生き物としての本能的感性がーーそれは長谷川さんが以前から持っていたものだがーーそれが長谷川さんの心の中で一層熱く燃えあがり、その熱が、その後の彼の行動を導いたのではないか、と。

長谷川さんが5年前に語った動物的勘とそれに突き動かされたその後行動(自主避難)は、原発事故の危険の中に生きる私たち市民にとって、なくてはならない最も大切な感性、ポエジー=幼な心=生き物としての本能的感性であり、国際人権法の冒頭に掲げられる自己決定権を、絵に描いた餅ではなく、原発事故に即して地に足を着けて実行した「生きた自己決定権」の姿だと思う。
言い換えれば、どんなに自己決定権の重要性を強調しようとも、そもそも自己決定権もまた、私たちがポエジー=幼な心=生き物としての本能的感性を保持する限りで初めて実りある決定に導かれるのであり、だから、ひとたびこの感性を喪失してしまったのでは、放射能に関するどんな正しい知識も啓蒙も、ネコに小判、馬の耳に念仏に終わる。

かつて(といっても、子ども脱被ばく裁判の中でここ4,5年のこと)、私は人権の出発点についてこう考えていた
最初に、自己決定権ありき
しかし、それは間違いだった。その前に、もっと重要な前提があること、それに気がつかなかったから。それが
最初に、動物的勘(
ポエジー=幼な心)ありき

マーク・トウェインと長谷川さんのおかげで、今、
動物的勘(ポエジー=幼な心があって初めて自己決定権も実りを結ぶことができると気がついた。

追伸
長谷川さんの動物的勘。英語だと「マイライフ アズ ア ニマル」か。それはこの映画
マイライフ・アズ・ア・ドッグ」を思い出させる。


   

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