「一年の計は元旦にあり」で、 本日、最高裁前で初アクション。昨年11月29日に出た、子ども脱被ばく裁判の最高裁の三行半決定(その全文)に対する抗議行動(昨年暮れの解説>こちら)。
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私もこれに間に合わせるために昨日、田舎から上京して参加。
4~5人くらいの参加者かと思ったら、ネットをみた市民が30名も参加。行動をともに出来て、ありがたいことです。
以下、当日の動画(冒頭&私。動画は
◆冒頭
◆私
※当日の抗議アクション全部の動画>こちら
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2025年1月 7日
最高裁は子どもたちに謝罪すべきだ
柳原敏夫(子ども脱被ばく裁判の弁護団
最高裁判所は、昨年11月29日、子ども脱被ばく裁判の上告の申立に対し、これを退ける決定を出しました(その全文)。子ども脱被ばく裁判は、福島原発事故当時福島県内で居住していた親子が原告になって、被告の国と福島県に対し、国らが福島原発事故直後に、子どもたちを被ばくから防護するための必要な対策を全く取らなかったばかりか、子どもたちを積極的に被ばくさせる有害な政策すら取ったこと、すなわちSPEEDI等の被ばくに関する情報を隠蔽したこと、子どもたちに安定ヨウ素剤を服用させなかったこと、一般人の被ばく限度として定められている年1mSvの20倍である年20mSvを基準として学校を再開し、そして子どもたちを集団疎開させなかったこと、長崎大学の山下俊一氏を使って根拠のない安全宣伝を繰り返したこと等、これでもかこれでもかと云わんばかりに違法な行為に出たこと、そのため、福島県の親と子どもたちは、自分たちが放射能の被ばくをどの程度まで受け入れ、或いは受け入れないのかについて自分で汚染状況を判断して、自分で行動を決定するという自己決定権を奪われ、その結果、子どもたちは、本来なら避けることができた無用な被ばくを強いられた、それに対する責任を問うために、2014年8月、福島地方裁判所に提訴された訴訟です(提訴の報告>以下。
7.17【速報】第二次裁判の概要決定。
8.18外国特派員協会での会見。
8.18記者会見(参議院議員会館)。
8.29提訴アクション:報告1。初めて原告7名(親子)が参加、発言した記者会見と原告のメッセージ
8.29提訴アクション:報告2。子ども脱被ばく裁判の提訴に合わせ全国同時&継続アクション
8.29提訴アクション:報告3。支援者の皆さんの力強い支援行動とスピーチ
8.29提訴アクション:報告4。弁護団のスピーチ(裁判所前)&解説(記者会見場)8.29提訴アクション:報告5。「民主主義社会における思想統制」を正しく実行した日本のマスコミ
8.29提訴アクション:報告6「民主主義社会における思想統制」に抵抗する独立系メディア
8.29提訴アクション:報告7子ども脱被ばく裁判の第二次原告募集のお知らせ
8.29提訴アクション:報告8子ども脱被ばく裁判の訴状本文)。
福島原発事故は日本が過去に経験したことのない未曾有の過酷事故でした。その上、この原発事故当時、被災地の多くの人たちは被ばく問題についてほとんど知識がありませんでした。ベクレルもシーベルトもわからず、被ばくの危険性も分からず、自分たちの生活環境がどの程度汚染されているかの情報もありませんでした。その中で、子どもたちの命、健康を福島原発事故から守るためには、福島原発事故に先行した史上最悪の原発事故、1986年のチェルノブイリ事故の経験から学び、被ばくについての正確な情報、被ばくの危険性についての偏らない知識が不可欠でした。しかし、この本当に必要な、本当に切実な情報は国と福島県によって隠蔽され、誤った安全宣伝が繰り返されたのです。これによって、子どもたちに無用な被ばくをさせてしまったと悔やんでいる多くの人たちがおり、その後、甲状腺がんに罹患した若者を含め、体調不良に悩む人々は少なくありません。このことに対する国や福島県の責任を明らかにしない限り、福島原発事故によって無用な被ばくによって苦しんでいる人たちの救済は永遠に果たされないばかりか、将来の原発事故の際にもまた同じ悲劇が繰り返されることになる、そのような切実な思いで提起された訴訟でした。
提訴の翌年2015年2月、裁判をどのように審理するかを協議する第1回目の進行協議の場は国と福島県の大勢の代理人によりすし詰めとなりました。国と福島県はこの裁判だけは絶対に負けられないと不退転の決意を示したのです。なぜなら、長期低線量被曝、内部被ばくの危険性を正面から問う裁判は、日本全国を見渡してもこの子ども脱被ばく裁判しかなかったからです。国が311以降、長期低線量被曝、内部被ばくの危険性を無視して、これによって健康被害が生じてもうやむやにする政策に出たのにはれっきとした訳があります。一言で言うと、それは原発の再稼働、核兵器の所有という国策の維持のために堅持しなければならない大前提だったからです。しかし、そのために、ふくしまの子どもたちが犠牲にされたのです。大犯罪者としての国のこの露骨な態度を目の当たりにして、私たち弁護団は、改めて、原告こそ負けるわけにはいかないのだと思いを強くしました(その報告>こちら)。
すなわち、この裁判こそ311の福島原発事故後の日本社会をどう建て直すのかという再建の道筋を左右する、最も重要な人権裁判であると同時に、これは最も重要な科学裁判であると。それは次のことを意味しました。
どんなに科学技術が進歩したとはいえ、しかも私たちは放射能を発見してからもう140年も経ったにもかかわらず、小児甲状腺がんひとつとっても明らかなように、放射能による健康影響のカラクリは今なお殆ど分からず、ブラックボックスの状態です。最近、深刻な環境汚染として問題になっているピーファス(PFAS)による健康影響も同様です。要するに、私たちの科学技術は現実世界のごく一面を、表面をなぞっているにすぎないのが現状です。そのような現状のもとで福島原発事故とどう向き合うのか。それについて、過去に過酷な経験をしたチェルノブイリ事故から学ぶしかない、そう言ったのは元松本市長の菅谷昭さんです(菅谷昭「原発事故と甲状腺がん」)。
このような思いと認識を胸に、原告らは10年間、チェルノブイリ事故の教訓とその後の知見に基づき、国と福島県の責任を明らかにしてきました。これに対し、2021年3月1日の福島地裁判決(その報告)、そして2023年12月18日仙台高裁判決は私たちの主張をことごとく退けました。しかし、そこにはきちんとした理由付けが何もありませんでした。そこで、原告らは、最高裁に上告し、昨年3月、私たちがこの10年間取り組んできた主張と証拠を詳細に主張する上告理由書を提出し、最高裁に、高裁判決と上告理由書の一体どちらの理由が正当であるのか、その判断を最高裁に仰ぎました(その報告)。
ところが、最高裁は、それから1年もしないうちに早々と、昨年11月の決定で、原告らの主張は認められないとだけ述べて、内容には全く踏み込まず、4行と2行の判決文で、文字通り三行半で原告らの申立てを退けました。最高裁はこれまで、重要な人権の裁判については、その結論が市民の主張を退ける時でも、最低限、その退ける理由は自ら具体的な判断を示して来ました。有名な1967年の朝日訴訟最高裁判決。これは原告の朝日茂さんの死亡により訴訟は終了したと原告の訴えを退けましたが、しかし、それに続いて、「念のため」と断って、25頁にもわたって、最高裁の考えを示しました。2022年6月17日の福島原発事故に対する国の責任を否定した最高裁判決すらもその理由を明らかにしました。
なぜか。それは「理由を示す」こと、それが司法が他の立法や行政と根本的にちがうところだからです。なんで今の国家に、立法や行政のほかにわざわざ司法があるのか。それは国が結論を下すときに単に結論を示せば足りるのではなく、必ず「なぜその結論が導けるのか理由を示して、結論の証明をすること」が求められるからです。司法というのは、理由を示してなんぼの世界なんです。その司法が理由を示さなかったらどうなるのか。司法の自殺です。司法自身が人権侵害を放置するゴミ屋敷です。
今申し上げたように、子ども脱被ばく裁判は福島原発事故後の日本社会の再建の道筋を左右する、最も重要な人権裁判です。しかし、このような重要な裁判に対し、最高裁は「理由を示してなんぼの世界」という存在意義を自ら否定して、具体的な判断を一言も示さなかったのです。
これを子どもが聞いたらどう思うでしょうか。子ども脱被ばく裁判の主役は子どもだからです。したがって、最高裁は子どもにも分かる言葉で、自分が下した判決の理由を示す必要がありました。しかし、たった4行や2行の言葉で、原告の子どもたちが数万行を使って求めていた問題に対する応答が出来るでしょうか。できるはずがありません。最高裁は、このことだけでも、子ども脱被ばく裁判の原告の子どもたちに謝るべきです。そればかりか、子ども脱被ばく裁判の原告の子どもたちは福島原発事故で被ばくした全ての子どもたちを代表して提訴した人たちです。だから、最高裁は、自分の三行半の判決に対し、福島原発事故で被ばくした全ての子どもたちに向かって謝るべきです。それをしない限り、みずから司法の自殺行為に出た最高裁は永遠に立ち直れないと思うのです。
そして、これは子どもたちの問題だけではありません。今回の判決によって最高裁は人権侵害のゴミ屋敷の中で自死してしまいました。そのために大変な被害を被ったのは福島原発事故の沢山の被害者ばかりではなく、裁判所を「人権の最後の砦」とみなしてつきあってきた私たちひとりひとりの市民です。
今回の判決が教えることは、私たち市民は私たちの人権がゴミ屋敷の中に打ち捨てられているとき、これを救済する裁判所という大切な砦を失ったということです。ではどうするか。
最高裁の上には裁判所はありません。しかし、最高裁の上には主権者である私たち市民がそびえているのです。だから、市民が、日本社会を人権侵害のゴミ屋敷にして平然としている最高裁に「それはおかしい」という声を上げること、それによって、日本社会は人権侵害のゴミ屋敷社会から復興できるのです。ただし、それは一気には実現できないでしょう。だが、あきらめずに一歩一歩前に進む中で、必ず実現できます。全ては私たち市民の声、市民の手にかかっています。今日はその最初の一歩の呼びかけをさせて頂きました。共に頑張りましょう。
以 上
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