至って通俗的だが、10年前まで、私にとってロシア・アヴァンギャルドというと、だいたいこんなイメージしかなかった。
しかし、2014年暮れのNHK「知られざるロシア・アヴァンギャルドの遺産」(>紹介サイト)で、これまで思ってもみなかったようなロシア・アヴァンギャルドの絵があることを知った(例えば下のルイセンコ「雄牛」)。
それから10年、ようやく、10年前に自分がこれらの絵に惹かれた理由がどこにあるのか、自分なりに明瞭になった。一言でそれは、タルコフスキーと同様、脱「脳化社会」をめざした表現だったからだ。それはまた、1930年代にソ連を覆った「社会主義リアリズム」に真っ向から背を向けるものだった。なぜなら、「社会主義リアリズム」こそ当時の「脳化社会」の最前線に立つ社会主義国家、その建設に奉仕する芸術運動だったから。
ルイセンコの「雄牛」はまた、「未知の普遍的なものを見る」見者にならなければと考えた(ー>ランボーの手紙)18歳のランボーが書いた詩「地獄の季節」の次の一節を絵画で実現した斬新なものだ。
見つかった。何が?
永遠が。海と溶け合う太陽が。
この絵もまた、脱「脳化社会」の母国語の辞書に記録される永遠の価値がある。タルコフスキーと同様、脱「脳化社会」をめざしたルイセンコ「雄牛」からスタートして、今一度、脱「脳化社会」の新たな社会のビジョンを展望することができるし、それが必要だ。
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