2025年1月13日月曜日

【第55話】パンセ:脱「脳化社会」に挑戦した先人たち(小林秀雄)(25.1.14)

 脱「脳化社会」に挑戦した先人たちのひとりに、小林秀雄がいたことを再発見。
それは彼の当初からの脱「自意識」の取組み、志賀直哉に対する高い評価からも窺われる。

とはいえ、彼自身が、「脳化社会」のことをどう考えていたかは分からない。だとしてもそれはどうでもいいことで、小林秀雄を上のように捉え直すことが今の自分にとって、小林秀雄を「その可能性の中心」として捉えることであり、それが生産的だ。

小林秀雄がドストエフスキーに注目したのも、ドストエフスキーが「脳化社会」の中でのヒューマニズムに違和感を抱き、「脳化社会」の塀の外に出て、そこにうごめく、自然世界の中の生き物としてのニンゲンに注目し、その生き様からニンゲンを再発見したドストエスフキーに小林秀雄もまた注目したのだ。その最初の一歩が「死の家の記録」。

それはまた、小林秀雄が柳田国男に注目したのと同様だ。彼が取り上げた大正15年の「山の人生」。これは脱「ヒューマニズム」という意味で、ドストエフスキーの「死の家の記録」に対応する。
柳田もまた、ドストエフスキーと同様、「脳化社会」の中での芸術、文化、ヒューマニズムに違和感を抱き、「脳化社会」の塀の外に出て、そこにうごめく、自然世界の中の生き物としてのニンゲンに注目し、その生き様からニンゲンを再発見した。その再発見のプロセスは、まるで谷川俊太郎の詩の発見のプロセスのようだ。

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一 山に埋もれたる人生あること


 今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃みのの山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、まさかりり殺したことがあった。
 女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘をもらってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度さとへ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手からてで戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
 眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きなおのいでいた。阿爺おとう、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向あおむけに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられてろうに入れられた。
 この親爺おやじがもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細しさいあってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持ながもちの底でむしばみ朽ちつつあるであろう。

 また同じ頃、美濃とは遙かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとにきていた。ある山奥の村に生まれ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里にかえってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑いあざける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。
 大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い隙間すきまから、淵を目がけて飛びこんだ。数時間ののちに、女房が自然と正気にかえった時には、おっとも死ねなかったものとみえて、れた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首をって自らくびれており、赤ん坊は滝壺たきつぼの上のこずえ引懸ひっかかって死んでいたという話である。
 こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕ゆうじょがあったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村のすみに、まだがらのような存在を続けていることであろう。
 我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。

 

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