脱「脳化社会」に挑戦した先人たちのひとりに、小林秀雄がいたことを再発見。
それは彼の当初からの脱「自意識」の取組み、志賀直哉に対する高い評価からも窺われる。
とはいえ、彼自身が、「脳化社会」のことをどう考えていたかは分からない。だとしてもそれはどうでもいいことで、小林秀雄を上のように捉え直すことが今の自分にとって、小林秀雄を「その可能性の中心」として捉えることであり、それが生産的だ。
小林秀雄がドストエフスキーに注目したのも、ドストエフスキーが「脳化社会」の中でのヒューマニズムに違和感を抱き、「脳化社会」の塀の外に出て、そこにうごめく、自然世界の中の生き物としてのニンゲンに注目し、その生き様からニンゲンを再発見したドストエスフキーに小林秀雄もまた注目したのだ。その最初の一歩が「死の家の記録」。
それはまた、小林秀雄が柳田国男に注目したのと同様だ。彼が取り上げた大正15年の「山の人生」(※)。これは脱「ヒューマニズム」という意味で、ドストエフスキーの「死の家の記録」に対応する。
柳田もまた、ドストエフスキーと同様、「脳化社会」の中での芸術、文化、ヒューマニズムに違和感を抱き、「脳化社会」の塀の外に出て、そこにうごめく、自然世界の中の生き物としてのニンゲンに注目し、その生き様からニンゲンを再発見した。その再発見のプロセスは、まるで谷川俊太郎の詩の発見のプロセスのようだ。
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今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、
この
また同じ頃、美濃とは遙かに隔たった九州の或る町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十あまりの女性が、同じような悲しい運命のもとに
大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛りつけて、高い
こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの
我々が空想で描いて見る世界よりも、隠れた現実の方が遙かに物深い。また我々をして考えしめる。これは今自分の説こうとする問題と直接の関係はないのだが、こんな機会でないと思い出すこともなく、また何ぴとも耳を貸そうとはしまいから、序文の代りに書き残して置くのである。
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