2025年1月4日土曜日

【第36話】2025年の自問自答その1:2つの世界のはざまで、人権はどこにどう居場所を見つけたらいいのだろうか(25.1.4)

 2025年、初夢と抱負が次々と訪れ、幸先のいいスタートが切れた、と思ったのもつかの間。新たな壁にぶつかり、自問自答のモードに入ってしまった。以下、その意味不明のつぶやき。

昨年10月に、チェルノブイリ法日本版のブックレットについて、
人権は、どんなに物知りになっても、どんなに情報収集しても、「発見」しない限り永遠に手に入れることはできない。なおかつそれは「人権侵害の発見」を通じてのみ見出される

という文をブログにアップしたら、或る人から次のレスがあった。

この言葉は名言ですね。
人権宣言は、いまだ実現しない人権の実現を願っ て、「人権の発見」をした人々から全世界の市民に向けて捧げられた愛の告白。

チェルノブイリ法日本版は、人権の本質の帰結として、原発事故が発生したからといって、人々は 一瞬たりとも人権を喪失することがないこと、国家も人権保障を実行する義務を一瞬たりとも免れな いことを確認し、原発事故救済に相応しく人権保 障を具体化した21世紀の「人権宣言」であり、全世界の市民に向けて捧げられた愛の告白である。


この言葉は4年前の2021年に書いたものだったけれど、当時、誰からも反応がなく、書いた当人も忘れかけていたほどだった。でも、このレスを読みハッとし、この言葉の価値を再認識した。

‥‥
と思ったところ、昨夏、養老孟司の「脳化社会」論に接し、自分の中に、脳化社会と自然世界との対立・衝突という人類史の最大の問題が沸き上がって以来、上の言葉にいったいいかなる価値があるのか分からなくなってしまった。
それは次の理由からだ。養老孟司は中国の都市文明が古代から脳化社会まみれにあることを指摘し、その証拠として孔子の「論語」に1行も自然世界、花鳥風月の記述がないことを挙げた。
「論語」にあるのはもっぱら人と人との関係、それも文明社会における人間関係のことだけ。ここには言ってみれば「脳化社会」漬けの倫理だけであり、自然世界の思想が入り込む余地はなかった。

つまり、養老孟司の理解する「論語」によれば、倫理は「脳化社会」の中の思想であり、そうだとすると、倫理の延長線上にある人権もまた「脳化社会」の中の思想でしかなくなる。そうだとすると、昨夏以来、「脳化社会」から抜け出すという脱「脳化社会」を最大の課題と認識し、そこに向かって試行錯誤してきた自分にとって、脳化社会」の中の思想と位置づけられる人権は、これを批判し、或いは否定し、精々でも揚棄すべき対象でしかなくなってしまいそうになった。
そのとき、人権はもはや手放しでは賞賛、共感、肯定すべきものではなくなってしまいそうだった。 

こうして、昨年初め、人類を対立・抗争に導く政治・政策に対し、人類を共存させる切り札として「発見」したはずの人権が、昨夏の「脳化社会」論との出会いの中で、「脳化社会」というコップの中の嵐の切り札でしかないのではないか、ということに今年正月に気づかされた。

それはさながら、万物の根源を数(整数)に見出したピタゴラスが、
ピタゴラスの定理によって整数ではない無理数(例えば、√2)を見出してしまったような心境だ。

以上、矛盾との出会いについてのつぶやき。 

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