以下は谷川俊太郎と高橋源一郎との対談「バカみたいなものを書きたい」(1985年)に触発されたもの。
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チェルノブイリ法日本版の訴え、これに対する最もシビアなリアクションが、
だから、どうだっていうのさ。
この「オレには関係ねえよ」という半ば開き直り、半ば無関心なリアクションは最強だ。なぜなら、人には他人に訴える表現の自由も、他人からの訴えを無視する自由もひとしく保障されているからだ。
これまで、この最強のリアクションに対し、私が取ってきた態度は次のようなことだった。
自分のことだけなら、それでもいい。
でも、これはそれでは済まない。
自分の子、孫、家族、友人の子、孫、家族、その周りの子、孫、家族に深刻な影響を及ぼす。
それを、このまま開き直れるだろうか。
しかし、その後、それはちょっとおかしいんじゃないか。でないとしても、どうもそれだけでは足りないんじゃないかと思い直すようになった。
前者は、なにか相手に呪いをかけているような脅迫的なものがあると思えたから。
後者は、相手本人について迫らずに、子ども、孫、家族という本人の弱みに付け込んで訴えているのが何とも厭らしく思えて、そんなことをしないで、もっと真正面から本人自身について、ズカッと、再リアクションすべきではないかと思えたから。
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(1)、前者:脱「呪い」
キリスト教の布教でよく聞かれた「信じない者には罰が下る」といった呪いをかけるやり方、殆どこれと同じ訴えが市民運動の中でもくり返されている。相手を不安に落しいれるのではなく、暗黒の中で希望を求めて、相手を励ます、元気付ける訴えをすること。そのためには、訴えをする者自身が、いつも、自分自身を鼓舞する探求(暗黒の中で希望を求める認識と実践)をしていることが大前提。
(2)、後者:脱「脳化社会」
原発事故の救済について、現状を変えていく必要があることを、単に「自分の子、孫、家族、友人の子、孫、家族、その周りの子、孫、家族」をダシにして訴えるのではなくて、ほかならぬ相手自身のために避けて通れない問題であることを理解させること。
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ならば、それはいかなる意味で、これが相手自身のために避けて通れない問題であるのか。
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この課題を考えていて、その中で思いついたことの1つが昨夏出会った「脳化社会」論。
日本版が提起する問題は単に「原発事故の救済」の問題にとどまらない、「脳化社会」のどん詰まりを象徴する出来事であり、このゴミ屋敷は我々の姿そのものであること、つまり「原発事故の救済」を放置する法治国家ニッポン社会そのものの姿が映し出されている。そう認識すべきであること。
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もっとも、そのことを理解してもらうために、「原発事故の救済」の問い直しの仕方、その表現方法で試行錯誤してきた。
つまり、
(1)、従来の自分のやり方のように、論理的、理詰めでいくのでいいのか
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それは、「脳化社会」内の意識言語でもって「脳化社会」批判をどこまで徹底してやれるのか。
とくに、人々が新たな一歩である、脱「脳化社会」に一歩踏み出すためには、もっと別の表現方法で迫る必要があるのではないか。
言ってみれば、脱「脳化社会」に相応しい表現方法で、「脳化社会」に安住している人たちの頭を引っぱたくくらいのことを、彼らの頭の上から冷や水を浴びせるくらいの必要があるのではないか。
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そのひとつが、
(2)、ノンセンス(非意味)で行く。
つまり、(1)が「脳化社会」内の意識言語だとしたら、これは脱「脳化社会」言語、(1)からはみ出した自然世界そのものから誕生した母国語のこと。
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