2025年1月12日日曜日

【第44話】ポエジーは「幼な心」につながっているだけではなく、すべての自然世界とつながっている(25・1・13)

いま、重要なのは、詩ではなく、詩情(ポエジー)だ。

そう言ったのは詩人の谷川俊太郎。そして、作家のミヒャエル・エンデ。

1980年の講演で、エンデはこう言った。

すべてのポエジーはその本質において、「擬人観的(人間の眼でものを見る)」、それゆえ
すべてのポエジーは、幼な心につながっている。
ポエジーは人間の内における、永遠に幼なきものだ。

そのことを映像で最も鮮やかに表現したのがタルコフスキー、ラッセ・ハルストレム。ふたりは、第一作「僕の村は戦場だった」「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」から一貫して、彼らの映画に登場する子どもも少年も大人たちも、人間の内における永遠に幼なきもの、ポエジーをくり返し表現した。

私にとって、このポエジー=人間の内における永遠に幼なきものについて鮮やかに語ったもうひとりの人物が「トム・ソーヤーの冒険」の作者マーク・トウェイン。彼は自伝の中で、7歳の長女スージーについてこう書いている。

よその子と同じように、スージーも快活で楽しそうに動き回り、遊ぶのが好きだったが,
‥‥ 時々、かなり長いこと自分自身の中に閉じこもり、人間存在のいろいろな謎や悲哀の深く隠された意味を解明しようと、子どもなりに必死に努力していた。わずか7歳の子どもだというのに、人間の歴史始まってから、大の大人たちを途方に暮れさせてきたのと同じ問題、
つまり‥‥
子ども部屋に一人ぽつんと閉じこもり、こういうことを長い時間をかけて考えに考えたあげく、娘はためらいながら、自身のたどたどしい言葉で、以上のことをあらかじめ母親に話してからこう
尋ねるのであった。
「おかあさん、みんな、何のために生きているのかしら」
‥‥
妻は娘に何度も何度も、「ねえ、スージーちゃん、そんな些細なことでいつまでも泣いたりしないことよ」と言ってなだめるのだった。
こう言われた
スージーはまたも悩むのだった。娘は自分にとって大事件と思われるいろいろなことーーおもちゃがこわれたとか、ひどい雷雨でピクニックが中止になったとか、子ども部屋で馴れ親しみ仲よしになっていたハツカネズミがネコにつかまって食い殺されたしまったこととかに小さな心を痛めていたが、この母親の言葉を聞いて、突然、天啓のような不思議な考えに行き当たったのである。
どうしてかわからないが、今みたいなことは大きな不幸とはいえないらしい。
どうしてでしょう?
不幸の大きさってどうやって測るのかしら?
その物差しは何なのかしら?
大きい不幸と小さい不幸とを区別する方法がきっとあるに違いないわ。
だとすると、その割合を決める規則ってのは?
娘は二、三日真剣にこのことを考えた
ーーが、結局、よく分からなかった
ーー挫折したのである。とうとう諦めて母親のところへ行き、助けを求めた。
「おかあさん、『些細なこと』ってなあに?」

‥‥それは、(母親が)その答えを言葉にしようとすると、意外にも予期しなかった困難に直面してしまい、それが次第にふくらみ、倍加していき、また別の挫折感となり、説明しようといくら努力しても行き詰ってしまうのだった。

‥‥そこで一つの結論に到達した。それは、これから自分の不幸の大きさを測る時には、スージー自身の物差しで測ってよいということになったのである。


そして、このポエジー=幼な心はまた、【第45話】で書いた通り、生き物としての本能的感性動物的勘)と繋がっている。
その
生き物としての本能的感性について、そのリアルな姿を私たちに示してくれた人たちのひとりがファーブル、シートン。

        シートン

       ファーブル


今日、「ファーブル昆虫記」を読み直してみて、或る人の「昆虫を観察したとき、ファーブルはそこで神を見た」という言葉がその通りだと思えてくる。同様に、「シートン動物記」でも、シートンはここに描かれた動物たちを観察したとき、彼もまた神を見たのだ。

そう思ったとき、40年近く前の或る晩の出来事の謎が解けた気がした。その頃、寝る前の息子に「シートン動物記」のどの生き物だったか覚えていないが、なにか危機一髪のところを抜け出した場面を読み聞かせしていたとき、彼がいきなりこちらを向き、分かった!と言わんばかりに目をキラキラ輝かせてハスキーな声でこう言った。
「おとうさん、勇気があるって、こういうことを言うんだね」

六歳かそこらの子どもが、こちらが一度も教えたこともない「勇気」ということについて、大人以上に、正確にその意味を理解したことに、私は人間存在の謎の深く隠された意味を彼が既に了解したように感じて、一瞬、声が出なかった。

今思うに、この時、息子は、シートンが見た神を彼もまた見たのだった。それだけのことで、特別不思議なことではなかった。子ども時代が終わったとき失ってしまった生き物としての本能的感性動物的勘)を思い出せば、息子が私にかけた謎も単純明快に解けるように思えた。

 私たちの目は見えているか

仲よしになっていたハツカネズミがネコにつかまって食い殺されたしまったことを「些細なこと」とは思えず、小さな胸一杯に心を痛めたスージーのポエジー=「幼な心」は、自然世界のポエジーと一直線につながっている。

 

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