2024年11月、谷川俊太郎が亡くなった。彼の訃報に接し、それまですっかり忘れていた彼の記憶が蘇った。その頃、再び強い関心を抱いた武満徹が谷川俊太郎の盟友だったことも思い出され、谷川は半世紀近くを経て、再び、私の中で強い関心を呼び覚ました。
他方、ちまた(ネット)では、大手メディアもどこも、追悼記事の名の下に、彼の私生活の重箱の隅をつつくようなスキャンダラスな記事が溢れている。それは谷川の真価とは無縁のもので、単に彼と関係者を辱めるものだ。恥を知るべし。
以下は、そんな追悼記事とは無縁の、脱「脳化社会」の母国語の最も鮮やかな使い手としての谷川俊太郎との再会のメモ。
1、1982年
20代がほとんど司法試験の受験勉強で明け暮れたせいか、合格した時、どうにも抑え難い感情があって、その鬱々とした気分の中で、合格した翌年1981年正月に、湯川秀樹に出会った。それは彼が小松左京と対談した新聞記事で、「我々には妄想がもっと必要だ」と発言していたからだ。この言葉こそずっと自分の中でひそかに確信していたことだった。彼の発言に衝撃を受け、以来、湯川の追っかけとなった。
その中で、湯川と谷川徹三の対談「宇宙と心の世界」を読み、人はどうしてこんなに深く考えられるのだろうかと二人の思索に感銘を受け、谷川徹三のファンにもなった。
数ヶ月後に司法修習生となり、1982年、家庭裁判所の修習で立ち合わせてもらった家事調停の調停委員が赤坂長義という脚本家だった。ユニークな人で彼に色々話を聞かせてもらった。その彼が「詩人の会のイベントに来るかい」と誘ってくれたので、のこのこ出かけた。それが「歴程」の朗読だった。山本太郎、吉原幸子、宗左近、粟津則雄、長谷川龍生といった詩人が次々と自作を朗読した。しかし私にはどうにも難解でピンと来なかった。ところが、普段着風のおじさんが壇上にあがるや、彼はそれまでの詩人と桁違いの朗読をした。朗々と歌い上げるようなその朗読に、耳元で歌をささやかれるような錯覚に襲われ、これこそ本物の詩人だ!と思った。それが当時、50歳そこそこの谷川俊太郎との出会いだった。このとき、彼が谷川徹三の息子とは知らなかった。
2、1995年
それから10数年後、1995年、当時、日本で一番遊ぶと言われた私立学校「自由の森学園」が、校内暴力事件に端を発し、集団退学問題に発展して学内が騒然とした時、父兄の一人として私もこの学校に週の半分ほど関わることになってしまった。その中で、生徒と一緒に「自主講座」を開催して、話を聞いてみたいと思う人たち(柄谷行人、浅田彰、小森陽一、ちばてつやなど)を呼んで交流したあと、白羽の矢が谷川俊太郎に立った。私は出版社から谷川俊太郎の電話を教えて貰い、一緒に自主講座を主催した生徒に連絡役を頼んだ。すると、谷川俊太郎は埼玉県飯能の山奥の学校まで来てくれた。ホールは谷川俊太郎をひと目見たい、彼の詩を聞きたいという生徒と父兄で満員だった。しかし私にとって印象的だったのは、谷川俊太郎が連絡役の生徒に向かってささやくように言った次の言葉だった。
「僕がここに来たのはさ、君に会いたかったからなんだ」
その生徒は畑部という聞き慣れない部の部員で、なんでも学校内の空き地を片っ端から耕しては野菜を植え、畑に変えてしまい、収穫した野菜を「今年もご協力ありがとうございました」という張り紙を添えて、玄関に置いて、玄関を行き来する父兄に配る(もっとも、それは彼のごく一面にすぎない)生徒だった。その彼のユニークさを、電話のやりとりの一撃で見抜いた谷川俊太郎の慧眼に感服した。
3、脱「脳化社会」の母国語の最も鮮やかな使い手
2025年の初夢のラスト(第32話)に、ドラマ「大地の子」に触れてこう書いた。
もともと私も自然世界の中で、産婆さんの手でお産し、幼少期は「ファーブル昆虫記」や「シートン動物記」に憧れ、虫捕りに夢中になった子どもだったのに、それが学校に通うようになると、すっかり思想も知識も改造され、人工世界の言葉しか喋れなくなり、喋らなくなってしまった。陸一心のように母国語をすっかり忘れてしまった。
もし今、自分の出自=自然世界の出であることを自覚したのなら、出自である自然世界の言葉ーーそれは私にとっての母国語ーーそれを知らないことは人間として耐え難いほど不幸なこと、恥ではないか。陸一心が自然世界(労働改造先の内モンゴル)で黄書海から母国語を学んだように、私もまた、自然世界で生きるすべを身をもって示した朱旭、ファーブル、シートン、坂本繁二郎、宮沢賢治、養老孟司、安部公房、武満徹、タルコフスキーたちから母国語を学ぼうと。
それが自然世界の中に身を置いて、そこで見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わって、震えて、喜怒哀楽を思いきり全開した個人的体験という固有言語で綴られる私の母国語の学び。母国語で語られた私のスケッチブック。私の唯一無二の宝物。
そしたら、その次は、私の個人的体験という固有言語で綴られた母国語を使って、脱「脳化社会」を再構成するスケッチ、設計図に挑戦してみること。
2025年に、この執念以外に、この執念以上に、追求すべき執念があるだろうか。谷川俊太郎の訃報から、その「母国語の道案内人」のひとりとして、谷川俊太郎という道連れ、脱「脳化社会」の母国語の最も鮮やかな使い手としての谷川俊太郎を発見した。
4、谷川俊太郎とミヒャエル・エンデ
ふたりは双子のように似ている。一人っ子で母親に溺愛された点だけでも(その点の風貌は盟友の武満徹とは対極的)。のみならず、
ふたりとも核心として口にするのは詩ではなく、詩情(ポエジー)。
その詩情(ポエジー)とは必ずしも詩で語られるとは限らず、今や、むしろ詩以外の表現で語られることのほうが多いことを認める。
現代において詩が力を失い、衰退し、人々もまた詩を求めないとしても、人々は依然詩情(ポエジー)には飢えており、渇えていて、むしろ人々の心を益々掴んで離さないことを認める。
それは我々の時代が、人工的、意識的な脳化社会として益々深化して、それに伴い人々の心の乾き、飢えも深化しているからだ。
つまり、人々はむしろ詩以外の表現で語られる詩情(ポエジー)に飢えており、渇えている。
この、人々が求めてやまない詩情(ポエジー)そのものを探索するのがこの2人に共通する仕事。
それはまた、「未知の普遍的なものを見る」見者にならなければと考えた(ー>ランボーの手紙)少年ランボーの仕事と重なる。
私にとってそれは、脳化社会の塀から外に出て、自然世界の中で、人間と自然との関係を再発見しようとしたタルコフスキーの仕事と重なる。そこで彼が見出したものは詩情(ポエジー)そのものであった。彼が「映像の詩人」と呼ばれた所以はここにある。
それゆえ、タルコフスキーは1986年に亡くなったが、彼の映画は彼の死後も、否、ますます、詩情(ポエジー)をもって人々の心を掴んでやまない。
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