都会に住んでいると、そこで襲われる孤独、その原因は人により様々だろう。
私の場合、24年前、NYで味わった得も言われぬ孤独の原因がなんだったのか、ずっと不明だった。
しかし、今度本格スタートする田舎の保養施設「奏奏(sousou)」を讃歌する文(第61話)を書いていて、同時に、ファーブル昆虫記、シートン動物記に夢中だった子ども時代を思い返していて、それが分かった。
自然世界の生き物たちが回りにいなかったからだ。
自然世界の生き物たちがいれば、たとえ一人で、個独だとしても、孤独ではなかった。生き物たちは別段、私に友情も抱かず、無頓着、非情だったが、それでもなお、彼らの姿はえも言われない気分をもたらした。つまり、鶴見俊輔のいう「存在の手ざわり」があった。
しかし、NYのような人工的な都会には自然世界の生き物たちがいない。生き物がもたらしてくれる気分もない。「存在の手ざわり」が皆無。
この人工世界との関係が私を孤独に突き落とす。それは私の心構えの問題でも、キャラクターの問題でもない。世界と自分との関係の問題だ。
だとしたら、都会で人がこのような孤独に襲われるのは普遍的な現象で、誰もがそこに突き落とされ、誰もがそこからの脱出をひそかに願って、いろんな手を使って、めいめいなりの脱出を試みる。 しかし、その多くがその場限りの気晴らし、うさ晴らしに思える。そのようなかりそめの脱出ではなく、「存在の手ざわり」に向かうべきだ。それが大地に足をつけて生きる、ということ。
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