20代末に司法試験受験生活にピリオドを打った時(1981年)、最初やったことの1つが大江健三郎と鶴見俊輔の講演会を聞きにいったことだった。鶴見の演題は「竹内好の方法論」のようなものだった。その内容は強烈なもので、今なお私の心に刻まれている(>その詳細)。
だから、谷川俊太郎がくり返し鶴見俊輔の言葉を引用するのは分かる気がする。鶴見もまた、脱「脳化社会」の問題意識を鋭く持っていた重要な人だと今日、気がついた。
生前、谷川俊太郎はくり返し鶴見俊輔に触れ、とくに彼のノンセンス発言について、自身の詩作の核心に関わるテーマとして喋っている。
鶴見俊輔さんのことばだったと思うんだけれど、「人間っていうのは、どうしても人生にいろんな意味を見つけたがる、意味を追求したがる。だけど、人生には意味だけがあるんじゃなくて、手ざわりというものがあるんだ」という言い方をされていて。(※)
鶴見さんのことばで「ノンセンスは存在の手触りをわれわれに教える」というのがあって、それをなるほどと思った記憶があります。(波瀬満子との対談集『かっぱ、かっぱらったか?—ことばをあるく9000日』)(ほかにも「現代作家アーカイヴ2」54頁)
ノンセンスとはただの駄洒落、言葉の次元のたわむれではない。
人が言語では表現できない、言語以前の存在に触れ、そこに立ち向かおうとするとき、否応なしに使わざるを得ない表現手段、それがノンセンス。
谷川は、ノンセンスを詩で書こうとした。というより、詩を詩たらしめるものがあるとしたら、それはノンセンスを通じて世界に立ち向かうこと、それしかないと確信した。
だから、ノンセンスとは何か?具体的なもので示せといわれたら、それは雑草だと谷川は言った。
なぜなら、雑草は意味もなければ、メッセージもない、ただそこに命を持ったものとして存在するだけの、生き物の手触りをもっとも端的に表現するものだから。
だとしたら、雑草というビジョンから出発して、ノンセンスのイメージを掴んでいけるんじゃないか。
例えば、雑草に対応する動物なら、雑種
人間なら、チンピラ‥‥
昆虫なら、虫けら
(※)(ナンセンスとセンス/鶴見俊輔 今江祥智 上野瞭 1972)
・センスは究極のところでナンセンスにぶつかるわけです。つまり、存在そのものは無意味なものなので、海辺に波が打ち寄せてくる、引いてまた打ち寄せてくる、その状態なんだ存在というのは。その状態を、意味のなさにおいて受け入れる。そして、その存在の感触を楽しむ。それを子供の時に教えてやると、これは楽しいじゃないかなんてことを存在の感触の楽しさというものを子供が知る手立てになる。そして、そのことによって生もまた耐えうるものになるってことがあるじゃないですか。
・もし子供にセンスから教えると、ある時にセンスの不合理生を考えたらもう、全然やる気を無くしちゃうわけですよ。始めにナンセンスに浸ると、センスそのものはその後、生きる技術ソテひ部分的な正当性を与えるとしても、全体はナンセンスの中にあるものとして安住できる。
・センスを頑なにこれだけが世界だと考えていると、視点が固定してくるでしょ。目隠しされた馬みたいに。それに対する一種の揺す振りをナンセンスは作っていると思うんです。そいういうところで、鏡の国のアリスに出てくる「ハンプティダンプティの”誕生しない日々のおくりもの”」や「ティードルディーとティードルダムの夕食まで喧嘩しなけりゃならないというもののバカらしさ」といったナンセンスというのは、センスの過同調に対するブレーキをつくっている気がする
・枕詞っていうのは初めがセンスがあったわけですよね。それがだんだんと形式的に使いこなす中でナンセンスに移行していく。つまり、中身をぽこっと落としちゃってからのバケツとしてやりとりするようになるんですよ。数学的になってくる。だから、それは大地に密着した生命のリズムや暮らしの共同体のリズムになっていくんだけれど、リズムがリズムとして感じられるようになってくるとそれはナンセンスになっていく。そうした存在の鼓動みたいなものを受け入れるっていうのがナンセンスの解釈なんじゃないですか。存在に対する新しい感触。意味はないけれども全く血潮が流れていくのをただ感じていく感じ。
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