2025年1月4日土曜日

【第35話】2025年の抱負その2:生きとし生けるものに捧げるレクイエム「2011年僕の村は戦場だった」(25.1.4)

僕の村は戦場だった」は60年以上前のタルコフスキー30歳の長編映画第1作。

 戦争を知らない私は、戦闘シーンの出てこないこの戦争映画を観て、ほかの戦争映画にはない、或る種の強烈なリアリティと親密感を感じた。タルコフスキー自身が、原作を読み、主人公の少年イワンの子どもらしい心が取り返しのつかないまでに完全に破壊されてしまっていたことに心の底から震撼させられたと語っていた(「映像のポエジア」26頁)。それを知り、この映画は戦争に巻き込まれた少年の心の奥底を描いたものだと知った。その心のひだはタルコフスキー自身の心のそれと重なるばかりか、私の中でも重なった。それで、傲慢不遜にも、私の長編小説もどき第1作の表題をこう名づけた。

恐 怖--1970年ボクの町は戦場だった--

それは「僕の村は戦場だった」が単なる戦争映画、そして反戦映画を超えていたからだ。この映画は1960~70年代に私が巻き込まれた戦争ーーそれは受験戦争と呼ばれた、砲弾の見えない戦争ーーのリアリティを最もストレートに表現し得た偉大な作品に思えた。

だから、「僕の村は戦場だった」は2011年の福島原発事故においても登場する資格があった。それは、見えない戦争と呼ぶしかない、実に膨大な人々を巻き込んだ過酷極まるカタストロフィーのリアリティをストレートに表現するために、そして、この残忍酷薄のカタストロフィーのために犠牲となった生きとし生けるものに捧げる真のレクイエムのために、呼び出されるまことの資格を有するものであった。

タルコフスキーは呟く「幼年時代が終わってしまったと感じた時、私は途方に暮れてしまう」。
ナチスドイツのソ連侵攻により、少年の幸福な時代が終わりを告げた時、この呟きと同じ事態が始まった。それが「僕の村は戦場だった」の物語。

もともと少年は田舎で、自然世界の中で家族と自足して暮らしていた。

ところが、或る日突如、その生活が断ち切られ、脳化社会の極限形態である「最新兵器による総力戦の戦争社会」のただ中にほおり込まれ、家族を失い、苦しみのどん底に突き落とされる。

 

しかし、戦争社会=脳化社会の極限形態のただ中にあっても、しばしの休息の際に、少年は夢の中で、かつての自然世界での暮らしが蘇る。


だが、目を覚ますと、少年は再び、現実の脳化社会の勇敢な少年兵として任務に励む。





しかし、ついにナチスに捕らえられ、拷問の末、記録写真を撮られて処刑される。

処刑の直前、少年は脳化社会に放り込まれる前の、おそらく彼にとって至福の時間だった、自然世界の中で妹と走り回った光景を思い出していた。

タルコフスキーが自然世界と脳化社会の2つの世界のはざまにあって人はどう生きたらよいのか、その意味を彼が自然世界から獲得した母国語を駆使して表現し、終生、問い続けてきた脱「脳化社会」のチャレンジャーとしての面目が、既にこの第1作に余すところなく刻まれている。

おわりにーー2025年の抱負その2ーー

思うに、タルコフスキーが描いた「戦争によって心が破壊された少年の心の奥底」という悲劇は単なる悲劇にとどまらない。その悲劇を観客ひとりひとりが自ら体験することを通じ、このような悲劇を二度とくり返してはならないという覚悟・決意がひとりひとりの心に芽生え、育つことーーそれを彼は願った。そしてそれは、見事に果たされた。

それと同じように、「福島原発事故によって生きとし生けるものの心が破壊された奥底」という悲劇を私たちひとりひとりが自ら体験することがとても重要なのだと確信する。そのために、私たちは、私たちなりに「2011年僕の村は戦場だった」を獲得する必要がある。
それがチェルノブイリ法日本版の課題である。
それが2025年の抱負その2である。

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